ジェイク・ドーバート

ジェイコブ・エルスワース・ドーバート(Jacob Ellsworth Daubert 1884年4月7日生)
 [アメリカ・メジャーリーガー]



 ペンシルベニア州シャモキン生まれ。左投げ左打ち。ポジションは一塁手。幼少のときから炭鉱で働いていたが、1906年に地元の野球チームに投手として入団、その後一塁を守るようになった。1908年に一度クリーブランド・インディアンズと契約したが、ドーバートはインディアンズでは試合に出場せず、すぐにマイナーのナッシュビルに送られた。翌1909年にブルックリンに入団し、2年目の1910年から打率3割を毎年記録する打者となった。この年の5月6日のゲームでは、1試合21刺殺(一塁手)という記録も作っている。

 1913年と1914年にそれぞれ打率.350、.329で2年連続の首位打者となり、1913年にはナショナルリーグの最優秀選手に選ばれる。1916年にはワールドシリーズにも出場したが、打率.176と活躍できなかった。1918年オフにドーバートはシンシナティ・レッズに移籍、1919年にはリーグ2位の79得点とリーグ最多の39犠打を記録するなど、レッズのリーグ優勝とワールドシリーズ制覇に貢献した。既に38歳になっていた1922年には205安打、三塁打22本(リーグ最多)、打率.336を記録している。

 1924年シーズン後半、ドーバートは体調を崩しチームを離れていたが、チームドクターの助言を無視して9月20日のシンシナティでのシーズン最終戦に出場する。試合後10月2日に虫垂炎の手術を受けたものの経過が思わしくなく、手術から1週間後の10月9日にペンシルベニア州で亡くなった。1966年にレッズの球団殿堂入り、また1990年にはドジャーズの球団殿堂入り選手となっている。

 1924年10月9日死去(享年40)