ジャンヌ・エビュテルヌ

ジャンヌ・エビュテルヌ(Jeanne Hebuterne 1898年4月6日生)
 [フランス・画家]



 パリに生まれる。画家を志していた兄アンドレによって、モンパルナスの芸術家村に連れて行かれ、当時は画家の卵として苦闘中の藤田嗣治のモデルになった。しかしながら彼女自身も画才を発揮し、美術界に入ることを望んだため、アカデミー・コラロッシに入塾することになった。そこで1917年の春に、当時は美術学校のモデルを務めていたウクライナ出身の女性彫刻家、ハナ・オルロフによってアメデオ・モディリアーニを紹介される。エビュテルヌは間もなくこの超人的な芸術家と恋に落ち、熱心なローマ・カトリック信者の家族の反対を押し切って、ユダヤ人のモディリアーニの許に転がり込むのであった。

 1918年の秋に二人は、モディリアーニの画商の望みを容れて、コート・ダジュールの温暖なニースの地に移る。画商は、モディリアーニならば、避寒で同地を訪れる金持ちの芸術愛好家に自作を売って、名前を揚げることができるだろうと目論んだのだった。ニース滞在中の11月29日にエビュテルヌは長女を出産した。

 翌春、二人はパリに戻ると、エビュテルヌはまたもや懐妊していた。この頃までにモディリアーニは、結核性の髄膜炎を患い、薬物濫用によって惹起された合併症のために衰弱し切っていた。

 1920年1月24日にモディリアーニが没する。エビュテルヌの家族は娘を自宅に連れ帰るが、本人はすっかり錯乱状態にあり、モディリアーニの死から2日後に、お腹の子供を道連れに、集合住宅の5階の窓から身を投げた。エビュテルヌの遺族は、彼女の自殺はモディリアーニのせいだとして、エビュテルヌの亡骸をバニュー墓地に埋葬した。それからおよそ10年後に、エビュテルヌ一家はとうとう折れて、渋々ながらもペール・ラシェーズ墓地のモディリアーニの傍らにジャンヌの亡骸を会葬することに同意した。

 1920年1月25日死去(享年21)