ホクトベガ

ホクトベガ(1990年3月26日生)
 [競走馬]



 1993年1月5日の新馬戦でデビュー。芝コースを初めて走った4戦目のフラワーカップで初重賞勝利を収めるが、クラシックの桜花賞、優駿牝馬はベガの前に5着、6着に敗れた。秋のエリザベス女王杯では、牝馬三冠のかかるベガに対して、9番人気でありながら勝利を収めた。

 この競走で関西テレビの馬場鉄志アナウンサーが実況した「東の一等星、北斗のベガ、ベガはベガでもホクトベガ」という名フレーズがある。生産者の酒井公平は「出走するだけで掲示板に載れればいい」と思っていて京都競馬場に行かなかったところ、ホクトベガが優勝したため「テレビの前でホクトベガに申し訳ない気持ちになった」と雑誌でコメントしている。

 1994年は苦しい競馬が続き、一時はGI競走の優勝馬でありながら障害競走への転向も陣営は検討していた。

 しかし、転機は1995年6月13日にやってきた。この年から中央競馬と地方競馬の交流が盛んに行われる様になり、川崎競馬場では伝統の牝馬重賞エンプレス杯が当時は唯一の牝馬限定の中央地方全国交流競走として開催されることとなり、ここにホクトベガが出走した。不良馬場で行われたレースで圧倒的としか言い様の無い大勝利を見せつけて地方競馬関係者に大きな衝撃を与える。砂の女王伝説はここに幕を開ける。

 1997年、第2回ドバイワールドカップに招待され出走。このレースをもって競走からは引退、レース後はそのまま渡欧させ、ヨーロッパの一流種牡馬との交配が計画されていた。

 しかし、当初の開催予定日(3月29日)に当地ドバイでは数十年に一度という猛烈なスコールとなり、順延となった。そしてレースとなった4月3日、ホクトベガは4コーナーで前を行くルソーに接触して転倒、競走を中止。さらに後続のビジューダンドが巻き込まれる形で追突、ホクトベガは左前腕節部複雑骨折により予後不良と診断され、安楽死処置を受けた。手綱をとった横山典弘はのちに、自らの強引な騎乗がアクシデントを引き起こしたと悔いた。

 原因がいずれにあるかは別にしても、かなり不運な要素が重なった事故であったとも言われている。だが、その後しばらく、日本では競馬趣味誌の紙面や競馬予想関係のホームページのコラムなどで、競馬ライターたちがレースVTR程度の資料を根拠にして鞍上の横山に対する心ないセンセーショナルな批判記事を書き連ねる光景が繰り広げられた。一時期、横山がマスコミ、特にJRAの機関誌『優駿』以外の競馬雑誌への露出をほとんどしなくなったのは、これら記事によって競馬マスコミ関係者や競馬ライターたちに不信感を抱いた事が原因であるとも言われている。

 なお、輸送の関係上、ホクトベガの遺体は日本に帰ることができず、故郷の酒井牧場に建立された墓にはたてがみが遺髪として収められた。

 ホクトベガを管理した調教師の中野は、ホクトベガの強さについて、この言葉を残している。「彼女はモナリザ。その強さは永遠の秘密です」

 生涯獲得賞金は8億8812万6000円。これは2009年にウオッカが更新するまでの牝馬獲得賞金最高記録であった。

 1997年4月3日死去(享年7)