沖雅也

沖雅也(おきまさや 本名:日景城児 1952年6月12日生)
 [俳優]



 大分県出身。父は石油卸売業、祖父は病院経営という裕福な家庭に生まれる。しかし父親の事業失敗のために大分市に転居。その後も市内を点々とする生活を送った。1967年12月、両親が離婚し再婚する母に付くも、家庭不和により翌1968年1月4日、中学校の卒業式を待たずに全財産10万円(当時)を持ってバッグ一つで上京、当日はホテルニューオータニへ宿泊。翌日から住み込みで中華そば屋の店員やカステラ工場の配送員など職を転々とし、年齢を偽りスナックのバーテンダーに落ち着く。

 ある日、客からスカウトされファッション誌のモデルになるも、単発的なポジションだったためスナック勤めを続けながら業務をこなしていた。1968年、日活関係者が客として訪れ、縁あって入社、日活ニューフェース俳優として映画『ある少女の告白・純潔』で銀幕デビュー。翌1969年には早くもエランドール新人賞を受賞、その後は数々の日活作品に助演する。1971年に入ると、主役に抜擢された『八月の濡れた砂』の撮影開始直後に怪我で降板という不運に見舞われる。しかし、テレビドラマ『さぼてんとマシュマロ』の主演で人気を博し、気鋭の若手として注目を浴びる。初期はアイドル的な人気であったが、松竹へ移籍した1972年から徐々に大人の役者への脱皮を試みる時期となった。

 1976年9月、人気テレビドラマ「太陽にほえろ!」に滝隆一(スコッチ刑事)役で出演し、爆発的な人気を得ることとなる。しかし、他にもレギュラー番組を抱える過密スケジュールに加え、ノイローゼ・躁鬱病の症状が出ており、1981年4月に東名高速道路・都夫良野トンネル付近で単独交通事故を起こし、身体的には軽症で済んだが2週間ほど入院、「太陽にほえろ!」は6週分休演する事態となった。6月放映の第463話から復帰し、3ヶ月間は出演を続けるが、抗うつ薬の副作用に悩まされており10月以後再び長期休演となり、このため最終的には翌1982年1月に短期復帰し病死という形で劇中から降板することになったが、その頃にはとてもテレビ出演できるような状態ではなかったという。この当時は現在よりも心の病に対する認識が一般的にまだ一段と低く、週刊誌・ワイドショー番組などでの報道も「ノイローゼ」と言う言葉のみで語られる事がほとんどであり、様々な憶測記事も飛び交った。

 その後は単発ドラマ等に出演していく。1983年になると以前の姿を取り戻し「かけおち’83」へ挑む。そしてファンクラブ員との会が公の最後の姿となる。1983年6月28日、『おやじ、涅槃でまっている』という遺言を部屋備え付けのメモに遺書を残したあと、新宿京王プラザホテルの最上階(47階)より警備員の制止を振り切って、フェンスを乗り越え後ろ向きのまま飛び降り、128メートル下の7階にあるプールサイドに落ちて即死した。突然の死は日本の芸能界に大きな衝撃を与えた。

 遺書にある「おやじ」とは、義父であり所属事務所社長の日景忠男のことである。彼は職を転々としながら荒んだ生活を続ける沖を、養父として公私に渡って面倒を見ていた。沖は自宅に彼宛の二通の遺書を残していた。1975年、実父の死去を機に養子縁組し、楠城児から日景城児となった。二人は同性愛の関係であったとも言われている。

 この事件以後、高層ビルの安全管理が見直されるきっかけとなり、それまでごく普通に行き来出来たビルの屋上は厳重に閉ざされ管理されるようになった。

 死後20年以上経った現在でも熱烈なファンが多数おり、墓に花を手向けていく者も少なくない。

 ●ホテルに残された遺書
 「今・・・
プラザホテル様へ 大変申し訳なく、お許し下さいませ。
つかこうへい様 あなたの名、つかを使いし僕をゆるせるものならおゆるし下さい。
人は病む。いつかは老いる。死を免れることはできない。
若さも、健康も生きていることもどんな意味があるというのか。
人間が生きていることは、結局何かを求めていることにほかならない。
老いと病と死とを超えた人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めることが
正しいものを求めることと思うが、今の私は誤ったものの方を求めている者

おやじ、涅槃でまっている。」

 ●自宅に残された遺書1
 「私は生きる気力を失い苦しさに負け、死を選びます。
 私の死は、私自身の人間としての問題で有り、沖雅也としてでなく日景城児として、死んでいきます。
 一、日景家一同様、名を汚して申しわけ有りません。許してください。
 一、日景忠男殿、あなたにうけたあたたかい思いやり、身にしみて感じておりました。一五年、大変お世話になりました。楽しい日々でした。お元気で、ありがとう」

 ●自宅に残された遺書2
 「私 沖雅也は生きていく気力を失い自殺します
 この自殺は私個人の問題で有り人をきづつけた私のせめてものおわびです、死という弱いひきょうなことでしかおわびの方法を知らない私をおゆるし下さい
 他人にめいわくのかからぬ様死にたかった
 日景忠男殿 あなた様のこの一五年の心苦いかばかりか さっするにあまりあります
 あなた様から受けた人生道、人間道、身にしみて、心より感謝いたします
 一心同体で歩いてきた道ですが途中で投げ出す私をおゆるし下さい。
 あなた様に何もしないで何も言わないで死んでいく私を、おしかり下さい。
 私のごとき男がそばにいてはあなたの人生がダメになります
 有りがとうございました
 お世話になりました。」

 1983年6月28日死去(享年31)