アンドレアス・プロドロモ

アンドレアス・プロドロモ(Andreas Prodromou  1980年生)
 [キプロス・客室乗務員]



 アンドレアス・プロドロモが搭乗するヘリオス航空522便は2005年8月14日午前9時7分にキプロスを出発して高度約34000フィート(約10400メートル)に上昇し、午前9時37分にキプロスの飛行情報区を出てアテネ飛行情報区に入域した。だが、管制センターへの応答もせず高度も下げないまま、午前10時40分にアテネ国際空港の空中待機経路に入り、自動操縦で旋回を始め、到着予定時刻の午前10時45分を過ぎても着陸に移らなかった。無言のままアテネ上空を旋回する522便に対し、ハイジャックや市街地への自爆テロの可能性があることから、ギリシア空軍はF-16を午前10時55分にスクランブル発進させた。午前11時24分にF-16が522便に接近したところ、コックピットではボース副操縦士が座席で前屈みに倒れており、メルテン機長の姿は見えず、客室では酸素マスクが下がった状態で誰も動いていなかった。午前11時49分、何者か(プロドロモ)がコックピットに進入し、機長席に座り事故機を操縦しようと試みているのがF-16から確認された。

 しかし、直後の午前11時50分に(おそらく燃料切れから)右翼のエンジンから出火が始まった。522便は空中待機経路を離れてアテネ国際空港に近い地点を降下しながら飛行し、数回旋回した後、2000フィートまで高度を下げた後に7000フィートまで高度を上げたが、燃料がなくなり左翼のエンジンも停止し、午後0時4分にアテネの北約40キロメートルのグラマティコ(現・マラトン市の一部)から約2キロメートルの山岳地帯に墜落した。目撃者の証言では急降下して地上に激突したという。この事故でプロドロモを含む乗員6名、乗客115名の合わせて121名全員が犠牲になった。

 事故機があと5分間飛行を続けていた場合、アテネ市街地への墜落の危険を回避するために撃墜命令を出す態勢にあったことを8月15日にギリシャ政府高官が明らかにした。またキプロス政府およびギリシャ政府は、本事故の発生を受けて3日間の喪に服すことを決定した。事故を起こしたヘリオス航空は、事故機の乗客名簿を6時間経過しても公表出来ないという不手際があり、家族が同社の事務所に入ろうとして小競り合いになった。また事故の翌日にはブルガリア行きの同社便への乗務を乗員が拒否し乗客もキャンセルする騒ぎが起きた。そのため同社はボーイング737の運航を中止、それにともない路線を縮小することになった。そのため事故がおきたプラハ線は廃止された。同社は翌年11月、他社に事業譲渡をし運航停止に追い込まれた。

 事故発生当初の報道は様々な事故原因の憶測が錯綜しており、「アテネの管制官に機内の温度が急低下した旨を連絡した後消息を絶った」、「パイロットの1人が体調不良を訴えていた」、「1名の乗客が携帯電話のメールで機内が冷たく身体が冷え切っていることを伝えてきた」、「回収された遺体は内部まで凍っていた」、「墜落時には全員が凍死か窒息死していた」などの情報が流されていた。そのうち、メールは何者かがイタズラ目的で流したものであることが判明し、ギリシャ当局は32歳の男性を逮捕した。この男性は後に懲役6ヶ月、執行猶予42ヶ月の刑事処分を受けた。また捜査機関は、いずれの報道も事実ではないと発表した。これはボース副操縦士を含む遺体26体の検視結果から、意識の有無は別として乗員乗客は墜落まで生存しており、墜落時の衝撃で死亡していたことが判明したためである。

 事故機はキプロスの管制官に気圧空調装置不良から来る警告ブザーを報告していた。墜落現場では酸素マスクをつけたままの遺体も複数確認された。そのため与圧システム系統の異常のため、客室及び操縦室の酸素量が低下して、乗員乗客全員が意識不明に陥っていたために操縦できず墜落したと見られていた。しかし最終的に、ギリシャ当局の航空事故調査委員会による報告書では、この与圧システムの異常は整備士の人為的ミスで発生したもので、運航乗務員もその異常を把握できなかったために事故に繋がったとしている。航空機が気圧の低い高度を飛行する時は、機内で地上と同じ気圧を維持するために、エンジンから機内に流れ込む空気と機体後方から出る空気を調整する与圧の制御が必要であり、空気の流量調整弁をオート・モードにして自動的に開閉し微調整することになっている。事故機は、直前のフライト後、乗務員が右最後尾のドアからの空気漏れとドアの氷結を報告したことに基づき、事故を引き起こすこととなる次のフライトまでの数時間内に与圧空気漏れの点検を行った。当該ドアの気密性そのものには異常がないとの検査結果が出たため、与圧コントロールの検査はそのまま終了し、検査のために機内に注入していた空気を流量調整弁から抜く作業を行った。しかし、機内からの排気終了後に流量調整弁をマニュアル・モード(手動)にしたままオート・モードに戻さずに整備士が降機していた。この事を、操縦士らが離陸前点検で気づかなかった。

 離陸後、流量調整弁が開いたままで、しかもマニュアル・モードにしているので自動的に弁が閉鎖されることがない状態で上昇しているうちに客室内の空気が抜けていったため、まず高度3000メートル附近で客室高度警報音が鳴り、4300メートル附近で客室内の酸素マスクが落下、気圧が低下し冷却空気が不足したため航空電子区画の温度警報が鳴るなど、旅客機内部の減圧にともなう機体異常が続発していた。しかし運航乗務員は客室の酸素マスクの落下に気づかず、減圧による異常が発生しているとは思わず警報の誤作動としか認識していなかったため、ヘリオス航空に連絡して整備士のアドバイスを聞いて警報を止めてしまった。それにより、運航乗務員は空気の減少に気付かないまま低酸素症に陥り意識が希薄になり、適切な操縦を出来なくなった末に意識を失い、事故機は自動操縦で高度10400メートルに達して目的地上空に着いたものの、燃料切れで墜落したものと推定された。

 客室の酸素マスクが下りたにもかかわらず運航乗務員が機体高度を下げず、やがて酸素の補給時間が過ぎて乗客が意識を失うという事態の中で、キプロス共和国でダイバーや特殊部隊員の経験があった客室乗務員のプロドロモだけが意識を失わず、異変を解決するため余った酸素マスクや機内の酸素ボトルで酸素を補給しながら操縦室へ向かった。ところが、操縦室扉の暗証コードを知らされていなかったため解除に手間取った。操縦室に入った時には酸素が底をつき、すでに着陸予定時刻を大幅に過ぎており燃料もなく、無線で緊急事態を知らせようとしたが通じず、操縦しようとした直後に右翼のエンジンが、続いて左翼のエンジンが停止した。プロドロモはパイロット志望で英国の事業用操縦士資格を持っていたが、ボーイング737操縦のための技能は不足しており、しかも燃料や酸素の不足も重なり、機体を無事着陸させることはできなかった。しかし、機体が旋回していたため山中に墜落し、市街地への墜落は回避され地上・都市部での大規模な二次被害を発生させることはなかった。事故機には、プロドロモのフィアンセで同じく客室乗務員のハリス・ハラランボも同乗していた。

 2005年8月14日死去(享年25)