太宰治

太宰治(だざいおさむ 本名:津島修治 1909年6月19日生)
 [小説家]



 青森県下有数の大地主の11人兄弟の10番目(6男)として生まれる。17歳頃、習作「最後の太閤」を書き、また同人誌を発行。作家を志望するようになる。1929年、当時流行のプロレタリア文学の影響で同人誌『細胞文芸』を発行すると辻島衆二の名で作品を発表。同年12月、みずからの階級に悩みカルモチン自殺を図る。

 1930年、フランス語を知らぬままフランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学。在学中に、カフェのウェイトレスで人妻である田部シメ子と出会い、鎌倉・腰越の海に投身する。だがシメ子だけ死亡し、太宰は生き残る。小説家になるために井伏鱒二に弟子入りする。この頃から本名・津島修治に変わって太宰治を名乗るようになる。大学は留年を繰り返した挙句に授業料未納で除籍される。

 1935年、「逆行」が、憧れの第1回芥川賞候補となったが落選。その後、都新聞社に入社できず、またも自殺未遂。1936年、前年よりのパビナール中毒が進行し治療に専念するも、処女短編集『晩年』を刊行。翌1937年には、内縁の妻小山初代とカルモチン自殺未遂、一年間筆を絶つ。1938年、井伏鱒二の仲人で甲府市出身の石原美知子と結婚。甲府市御崎町に住み、精神的にも安定し、「富嶽百景」「駆け込み訴へ」「走れメロス」などの優れた短編を発表した。戦時下も「津軽」「お伽草紙」など創作活動を継続。1947年、没落華族を描いた長編小説『斜陽』が評判を呼び、流行作家となる。『斜陽』の完成と前後して、登場人物のモデルとなった歌人太田静子との間に娘の太田治子が生まれ、太宰は認知した。

 「人間失格」「桜桃」などを書きあげたのち、1948年6月13日に玉川上水(東京都北多摩郡三鷹町)における愛人・山崎富栄と入水心中。2人の遺体が発見されたのは、奇しくも太宰の誕生日である6月19日の事であった。この事件は当時からさまざまな憶測を生み、愛人による無理心中説、狂言心中失敗説等が唱えられている。また、自身の体調不良や、一人息子がダウン症で知能に障害があったことを苦にしていたのが自殺の原因のひとつだったとする説もあった。しかし、50回忌を目前に控えた1998年5月23日に、遺族らが公開した太宰の9枚からなる遺書では、美知子宛に「誰よりも愛してゐました」とし、続けて「小説を書くのがいやになったから死ぬのです」と自殺の動機を説明。遺書はワラ半紙に毛筆で清書され、署名もあり、これまでの遺書は下書き原稿であったことが判った。

 東京・杉並区梅里の東京博善堀ノ内斎場にて荼毘に付される。戒名は文綵院大猷治通居士。太宰の墓がある東京都三鷹市の禅林寺では、太宰と富栄の遺体が引き揚げられた6月19日には毎年多くの愛好家が訪れている。

 1948年6月13日死去(享年38)