冬木弘道

冬木弘道(ふゆきこうどう 1960年5月11日生)
 [プロレスラー]



 東京都生まれ、神奈川県育ち。横浜商科大学高等学校卒業後、1979年5月6日に国際プロレスに入門し、1980年5月4日にプロレスデビュー。国際プロレス解散後は全日本プロレスに移籍し、天龍源一郎の付き人を務めた。1984年11月に海外初遠征。テキサス州サンアントニオ地区では川田利明とのタッグチーム「ジャパニーズ・フォース」で活動。

 帰国後、天龍同盟に参加。1990年に天龍らと共に全日本を離脱し、SWSの旗揚げに参加。再度天龍と共に道場「REVOLUTION」の一員として活動する。1992年にSWS内部で対立が起きた際にも天龍と行動を共にし、SWS崩壊後に天龍が興したWARに参加。1994年頃から天龍らWAR正規軍と敵対する反体制側に回り、冬木軍として邪道、外道とのトリオで活躍した。新日本プロレス、IWAジャパン、新格闘プロレス、FMWにも参戦し幅広く活躍する。冬木は理不尽大王を自称し、リング上でコントを披露するなど愛嬌のあるヒールとしてのイメージを定着させる。

 1996年10月を最後にWARを離脱し、邪道・外道と共に冬木軍プロモーションを設立。その後はFMWに再び参戦し活躍する。ミスター雁之助、金村キンタローらとTNR(チーム・ノー・リスペクト)を結成し、創始者である大仁田厚をFMWから追放することに成功。その後もハヤブサら正規軍を苦しめる反面、ユニット「ブリーフブラザーズ」を結成し、白のバスローブに白いブリーフ姿でコントを披露した。TNR解散後も冬木は井上京子、チョコボール向井らとECW JAPAN軍を率いて活躍し、一方でFMWのコミッショナーに就任するなどリング内外で団体を牛耳るパフォーマンスは、リング上に留まらない新世代のヒールスタイルとも言われた。また邪道、外道、冬木で「理不尽音頭」というCDを発売し、歌手としてもデビューしている。

 2002年2月のFMW経営破綻後、3月に自ら主宰する団体としてWEWを設立し、5月に川崎球場で旗揚げ戦を開催することを発表した。4月7日、プロレスリング・ノア有明コロシアム大会で15年ぶりに三沢光晴とシングル戦を行い、正統派のプロレスでも改めて高い技術を見せた冬木は、健在を誇示した。だがその2日後、後楽園ホールでの冬木軍主催興行の試合後に大腸がんを理由に、控室で引退表明を行う。試合前に一報と病状を電話で受けたノア取締役の仲田龍は三沢に報告し、三沢はWEWがまだ立ち上がっていない冬木のために、4月14日にたまたま日程が空いていたディファ有明の会場をすぐさま確保し、ノア主催による冬木の引退興行を開催することを発表した。ノアは6日間で興行実施の手筈を整え、ノア及び三沢の全面協力を受けて、冬木はディファ有明にて引退試合を行い、22年間の現役生活に終止符を打った。

 なお、「がんによる引退」という引退発表は冬木軍主催興行試合後の控室でのインタビューで唐突に冬木本人が発したもので、それまでの冬木が演じてきた理不尽ギミックもあって、「アングルではないか?」という疑問視をする者が少なからず存在していたが、控室に『引退』からの安易な『復帰』というアングルを極端に嫌うことで知られていた三沢が同席しており、「冬木のための引退試合を急遽開催すること」、「5月5日に開催予定のWEW旗揚げ戦(川崎球場大会)にノアが全面協力すること」、「もし川崎球場大会に冬木が来場出来ない場合は、三沢が興行の陣頭指揮をとること」の3つを発表したことから、引退が真実であることや、冬木の病状の深刻さを多くのファンも察することになった。

 冬木引退試合のためにノアは、来場するファンに向けて黄色の紙テープを持参するように呼び掛け、試合開始前の「冬木弘道」コール後、無数の紙テープが飛んだ(なお、10カウントゴングはWEW旗揚げ戦で行う為、この日は行われなかった)。興行の収益金はノアから全て冬木に贈られた。当日はノアの内外から多くのレスラーが来場・参戦しており、会場には新日本の永田裕志、冬木とFMWで袂を分けた邪道・外道、さらには天龍までもが来場した。

 冬木は引退試合後に入院し緊急手術を受けた後、5月5日に川崎球場でWEWの旗揚げ戦を行い、WEWではプロデューサーとして活躍した。この時点でがんは既に肝臓などにも転移しており、2003年3月19日、がん性腹膜炎のため、横浜市民病院で死去。葬儀の場ではGOEMON、アングル上ほとんど敵対関係であったハヤブサまでもが号泣していた。冬木の没後、WEWは「冬木軍プロモーション」を名乗り、冬木の妻が社長を務めた。

 冬木は2003年5月5日の川崎球場大会で一夜のみ復帰し、橋本真也と電流爆破マッチを行う予定だった。冬木は亡くなる8日前の3月11日、病院から外出許可を貰い、モルヒネを打って橋本に直談判をして対戦を約束し、お互いに握手をして別れた。この時の冬木は終始汗が止まらず、顔色も悪く既に末期的症状であったという。予定通り行われた川崎球場大会では、橋本は金村と電流爆破マッチを行ったが、橋本は試合前に対戦の約束を果たすかのように冬木の遺骨を抱え、自ら電流爆破に身を投じた。

 2003年3月19日死去(享年42)