バディ・ホリー

バディ・ホリー(Buddy Holly 本名:チャールズ・ハーディン・ホリー 1936年9月7日生)
 [アメリカ・ミュージシャン]



 テキサス州の石油と酪農の街、ラボックに4人兄弟の末っ子として生まれる。愛称の由来は、母親が彼の事を「buddy(坊や)」と呼んでいた事からと言われている。家族全員が音楽好きという環境の中で自然と音楽に親しみ、高校時代には親友のボブ・モンゴメリーとバンドを結して、当初は主にカントリーを演奏した。1953年、バディとボブの2人はベーシストのラリー・ウェルボーンとローカルラジオ局KDAVの30分番組を持つ様になり、その頃にはスリー・チューンズとよばれたカントリーバンドとしてクラブなどで演奏していた。1955年、エルヴィス・プレスリーとの出会いがあり、その影響でバディはロックンロールに傾倒、自分のバンドにドラマーのジェリー・アリソンを加える。バディのみに対してデッカ・レコードが契約を申し入れるが、バディはそれに対し不快感を示す。結局親友ボブの説得により、デッカ・レコードと契約。この際、自身の姓を「Holley」ではなく「Holly」と間違えて署名してしまったことからそのまま定着したといわれる。1956年、ナッシュヴィルのスタジオでプロデュースをオーウェン・ブラッドリー、ギターをソニー・カーティス、ベースをドン・ゲスという構成でレコーディングを行い、数曲リリースするが、全く反響がなく終わり、事実上デッカ・レコードとは契約放棄という形となる。

 1957年、バディの理解者であり有能な音楽プロデューサー、ノーマン・ペティのコネクションによりデッカ・レコードの子会社であるコーラル・レコードと契約。新たなバンド「バディ・ホリー&ザ・クリケッツ」を結成し、デビュー曲の「ザットル・ビー・ザ・デイ」をはじめ、「イッツ・ソー・イージー」「ペギー・スー」などを大ヒットさせ、その才能を開花させた。

 1958年8月15日、プエルトリコ出身の女性マリア・エレナ・サンティアゴと結婚。同年、バディはソロとしてクリケッツと別々に活動する事になり、ニューヨークでのレコーディングが多くなる事から住所を同地へ移す。音楽性に関してはポップスの傾向が強くなる。

 眼鏡にスーツという出で立ちは、一般の大人しい若者を中心に受け入れられたが、1959年2月3日未明、アイオワ州クリアレイクでのツアー後搭乗したメイソンシティ空港発ミネソタ州ムーアヘッド行きのチャーター機(ビーチクラフト ボナンザ35)が、吹雪のために方向を失ってアイオワ州セロ・ゴード郡グラント郡区のトウモロコシ畑に墜落し、パイロットとバディ、同乗していたリッチー・ヴァレンス、ビッグ・ボッパーの4人全員が死亡した。バディは22歳、ヴァレンスは17歳、ビッグ・ボッパーは28歳でそれぞれ没した。このツアーの終了後、クリケッツと活動を再開する予定となっていたが、果たされなかった。

 3人のロックンローラーが一度に死に、ファンに衝撃を与えたこの日は、後に「音楽が死んだ日」と呼ばれるようになった。妻マリアは当時バディの子供を妊娠していたが、程なくして流産した。

 バディのしゃくりあげるような裏声を用いて独特のアクセントをかもすヒーカップ唱法や、軽快なビートが特徴である。彼の独特な歌唱法、バディ節は、その後日本において坂本九によって受け継がれたという(奇しくも彼もホリー同様、飛行機事故で命を落とすことになる)。バディ愛用のギターはフェンダー・ストラトキャスターで、アコースティックギターが全盛だった当時は新鮮であった。墓石には、愛用したストラトキャスターの形が刻まれている。1960年代にデビューしたミュージシャンには、彼の影響でストラトキャスターを手にしたと語る者も少なくない。彼のバンド、バディ・ホリー&ザ・クリケッツはギター2本とベース、ドラムスでバンドを編成し、後のバンドの基本的な形となった。当時はロックでもいわゆるビッグバンドスタイルが主流だったが、金がない彼らは、巡業では4人のバンドメンバーだけで演奏することが多く、結果的にそのスタイルが定着した。最悪、バディとドラムのジェリー・アリソンだけで回ったこともある。結果、ビートルズなどの後世のロックバンドに大きな影響を与えた。バディは活動後期にはヴォーカルのダブル・トラックやストリングスの導入など、レコーディング・テクニックの可能性を追求し始めており、存命し続けていればさらなる音楽的成長が期待できたとも言われている。1986年に、ロックの殿堂入りを果たした。

 1959年2月3日死去(享年22)