田中英光

田中英光(たなかひでみつ 1913年1月10日生)
 [作家]



 東京生まれ、母の実家の神奈川県鎌倉市に育つ。早稲田大学政治経済学部在学中の1932年、ロサンゼルスオリンピックに漕艇選手としてエイト種目に出場した(予選敗退)。その経験を『オリンポスの果実』(1940年)に描き、青春小説の名作として認められた。1940年12月、同作品は第7回池谷信三郎賞を受賞した。

 1935年頃から太宰治に師事、『鍋鶴』(1939年)、『われは海の子』(1941年)を経て、1946年に日本共産党に入党した。1947年、『N機関区』『少女』などが反党的と批判され、離党後は次第にデカダンスの生活に陥った。

 1948年6月13日、太宰が自殺。大きな衝撃を受けた英光は睡眠薬中毒と化す。1949年5月、同棲相手を薬物中毒による妄想のため刺す。同年11月3日午後5時頃、三鷹市の禅林寺の太宰の墓前で、睡眠薬アドルム300錠と焼酎1升を飲んだ上で安全カミソリで左手首を切って自殺を図る。知らせを受けて駆け付けた新潮社の編集者野平健一により、同市上連雀の病院に運ばれ、処置を受けたが午後9時40分に死去した。

 1949年1月3日死去(享年36)