ピエール・ルヴェー(Pierre Levegh 1905年12月22日生)
[フランス・レーシングドライバー]
結局この事故はルヴェーを始め観客・スタッフ含め81人が死亡する大惨事であった。直後を走っていたファン・マヌエル・ファンジオは僅かな隙間を見つけて無事現場を通過した。接触の直前、ルヴェーは左手を挙げて後方に合図しており、ファンジオは「私が今も生きていられるのはルヴェーのおかげである」「私に警告するためにあげた手が、さよならをいうためにあげたように思える」と振り返っている。
レース後査問委員会が設けられ、関係者の事情聴取や現場検証が行われた。各国のメディアで事故原因を究明する報道がなされたが、5か月の調査の後、査問委員会は大会主催者およびいずれのドライバー・チームにも責任はないとの結論を下した。
当時の一般的なサーキットはピットレーンと本コースが区切られておらず、ピットに出入りする低速のマシンと高速走行中のマシンが接触する危険性は常にあった。サルト・サーキットの場合はコース幅が非常に狭く、ピットへの減速レーンが設けられていなかったため、周回遅れのマックリンとピットへ向かうホーソーンが同じ車線を通る結果を招いた。また、観客席がコースに近く、防護柵などが備わっていなかったことも被害の拡大に影響した。
フランスのマスコミはホーソーンの車線変更と減速が不適切な判断であったとして批判した。ピットイン直前に周回遅れを抜く必要があったのか、あるいは停車位置をオーバーランしたことから、ファンジオとの首位争いに熱中しすぎてピットインを忘れ、慌ててピットに滑り込もうとしたのではないかと疑われた。
貰い事故ではあったがメルセデス・ベンツはトップ走行していたファン・マヌエル・ファンジオ、スターリング・モス組を含めて自主リタイアさせた後、速やかに撤収作業を行いサーキットを後にした。12日早朝、フランス警察が国境検問所にメルセデスの輸送隊を足止めするよう連絡したが、彼らはすでに国境を越えてドイツに戻っていた。その手際の良さがかえって「マシンの欠陥やレギュレーション違反が発覚するのを怖れたではないか」という嫌疑を招いた(事故発生後には観客席でメカニック達が部品を回収する姿が目撃されていた)。ダイムラー・ベンツが公式声明で「事故の原因は、ジャガーに乗るイギリス人のマイク・ホーソーンにあり、メルセデスはむしろ被害者だ」と述べたことで、イギリスでの風当たりは特に強かった。
ルヴェーのマシンが黒煙を上げながら激しく炎上し、消火作業中に再度爆発したことから、「エレクトロン製のボディが発火したのではないか」「燃料に違法な化合物を添加していたのではないか」と噂された。ル・マンでは全車に指定燃料の使用が義務付けられており、給油作業時にはオフィシャルが成分を検査するという手続きがある。メルセデスは車検でも分からないような部品にニトロメタンを隠しておき、走行中に燃料に混入していたのではないかという説である。ノイバウア監督は記者会見で実験をしてみせ、電気めっきした金属を加熱して水をかけると煙と炎がまきあがることを説明した。燃料疑惑については、フランスの関係当局が回収した残骸の中に燃料噴射用のモーターがあり、残留燃料の検査から規定通りの成分であることが証明された。
この「違法燃料説」は後々まで語られることになるが、ファンジオは「たわごとだ。あんな素晴らしい車にそんなものいらないよ」と一笑に付している。ノイバウア監督と広報担当のアルトゥル・ケザーは迅速な撤退の理由について、苦労して開発した燃料噴射システムの秘密が知られてしまうのを避けるためだったと率直に語っている。
メルセデスは1985年にザウバー・C8にエンジン供給するまでモータースポーツ活動を中止した。またスイスではラリーやヒルクライム以外のレースが禁止された。
1955年6月11日死去(享年49)