アーバン・ショッカー

アーバン・ショッカー(Urban Shocker 1890年8月22日生)
 [アメリカ・プロ野球選手]



 オハイオ州クリーブランド出身。1915年にカナディアンリーグからヤンキースに指名され入団、翌1916年にデビュー、12試合に登板し4勝3敗、防御率2.62の成績を残す。2年目の1917年のシーズンオフにヤンキースとセントルイス・ブラウンズとの間で5対2プラス金銭の大型トレードが成立し、ショッカーはエディ・プランクとデル・プラットと入替えにブラウンズに移籍した。

 ブラウンズでは1918年に14試合の登板ながら防御率1.81と好投する。メジャーリーグでは1920年にスピットボールが禁止されたが、ショッカーには特例としてスピットボールを投げることが認められ、同年初めて勝ち星を20勝に乗せた。1921年にキャリア最高の27勝12敗を記録しアメリカンリーグの最多勝利投手となり、次の年の1922年にはリーグ最多となる149奪三振を記録、この年チームも過去最高のリーグ2位まで躍進した。

 ブラウンズに1924年まで在籍した後、再びトレードでヤンキースに復帰、1926年には19勝11敗、1927年には18勝6敗と35歳を過ぎても高い勝率を維持していたが、1928年に1試合登板したところでヤンキースはショッカーを放出、そのままメジャーでのキャリアを終えた。ショッカーは、ヤンキースに在籍した投手の中で最後のスピットボーラーとなった。同年ショッカーは肺炎を患い、9月にコロラド州デンバーで亡くなった。

 1928年9月9日死去(享年38)