小原保

小原保(こはらたもつ 1933年1月26日生)
 [誘拐殺人犯]



 福島県の貧しい農家の11人兄弟の家に生まれた。子どもの頃、わら草履で山道を登校し続けたことで、足のあかぎれが化膿。2年間学校に通えず、足を引きずる障害も残った。教育をまともに受けられず、時計修理工の職を転々としていたが、遊興費などで借金を抱えていた。取り立てから借金の返済を迫られていた小原は、映画『天国と地獄』の予告編を観たことで身代金目的の誘拐を計画するようになった。

 1963年3月31日、小原は東京・台東区立入谷南公園で建築業者の長男・村越吉展(当時4歳)に声をかけ、被害者が持っていた水鉄砲を褒める形で誘拐した。しかし、小原は被害者に足が不自由だと悟られたことから、被害者を親に返せば足が不自由なことから自分が犯人と特定されると考えたため、誘拐直後に殺害し、荒川区南千住の円通寺境内に埋めた。4月2日17時48分、小原は身代金50万円を要求する電話を被害者宅にかけ、この後も複数回に渡って脅迫電話をかけた。4月7日1時25分、小原は「今すぐ(母親が)一人で金を持って来い」と身代金の受け渡し方法を指示する電話が入れた。この電話で小原の指定した現金受け渡し場所は被害者宅からわずか300mしか離れていない自動車販売店にある軽三輪自動車だった。自宅をすぐに出た母親は小原に指定された場所に行くと、そこには被害者の靴が置いてあったので身代金50万円の入った封筒をその場所に置いた。警察がその車を見張りだすまでのわずかな時間差を突いて、小原は被害者の靴と引き換えに身代金を奪取し逃亡に成功した。張り込み捜査員の1人は母親が50万円を置いた側にまわる途中、現場から歩いてくる背広姿の男(小原)に会ったが、気が急いていたため職務質問もしなかった。

 捜査は長引き、警察が小原を逮捕するまで2年の歳月を要した。捜査が長引いた理由には次のようなものがある。
・人質は事件発生後すぐに殺害されていたが、警察はそれを知らなかった。
・警察は人質が殺害されることを恐れ、報道各社と報道協定を結んだ。
・当時はまだ営利目的の誘拐が少なく、警察に誘拐事件を解決するためのノウハウがなかった。
・身代金の紙幣のナンバーを控えなかった。
・小原からの電話について逆探知ができなかった。
・当初、脅迫電話の声の主を「40歳から55歳くらい」と推定して公開し、犯人像を誤って誘導することになった。
結局は、マスコミを通じて情報提供を依頼。事件発生から2年が経過した1965年3月11日、警察は捜査本部を解散し、「FBI方式」と呼ばれる専従者を充てる方式に切り替えた。

 有力な手がかりとされた脅迫電話の録音テープについて、当初警察庁科学警察研究所の技官鈴木隆雄に録音の声紋鑑定依頼をしたが、当時は技術が確立されていなかった。言語学者の金田一春彦は犯人の声が公開された後、「青」や「三番目」という言葉のアクセントや鼻濁音の使用等から「奥羽南部」(宮城県・福島県・山形県)または茨城県・栃木県出身ではないかという推論を新聞に発表している。最終的には東北大学文学部講師を務めていた言語学者の鬼春人が、1963年10月21日に「犯人は郡山市以南の南東北・北関東出身である」という説を新聞に発表し、出身地の絞り込みにつながることとなった。

 その後、警視庁が東京外国語大学の秋山和儀に依頼した鑑定では脅迫電話の声を従来の推測とは異なる「30歳前後」と推定、声紋分析で「犯人からの電話の声が時計修理工の小原保(事件当時30歳)とよく似ている」と指摘した。事件発生直後の1963年5月に、文化放送のある社員が行き付けの喫茶店で「声によく似た人を知っている」という話を聞き付けたことがきっかけで、よく顔を出すという飲み屋(愛人が経営)に張り込んで小原に録音を伴ったインタビューをおこない、さらにその後、店にいる小原を呼び出して電話をした際の会話も録音し、それらの音声が残されていた。秋山の指摘は後者の音声を脅迫電話と比較鑑定した結果であった。

 これに加え、刑事の地道な捜査により小原のアリバイに不明確な点があることを理由に参考人として事情聴取が行われた。それまでにも、小原は容疑者の一人として捜査線上に上がっていた。小原は、1963年8月、賽銭泥棒で懲役1年6月(執行猶予4年)の判決を受けたが、執行猶予中の同年12月に工事現場からカメラを盗み、1964年4月に懲役2年の刑が確定。前橋刑務所に収容されていた。警察は、上記の窃盗容疑での拘留中の小原に対し、取り調べを幾度か行ったが、次の理由から決め手を欠いていた。
・小原は1963年3月27日から4月3日まで福島県に帰省していたと主張していたが、そのアリバイを覆せる証拠がなかった。
・事件直後に大金(20万円)を愛人に渡しているが、金額が身代金の額と合わない。
・脅迫電話の声と小原の声質は似ているが、使用している言葉が違うので同一人物と断定できない。
・ウソ発見器での検査結果は「シロ」であった。
・片足が不自由であることから、身代金受け渡し現場から素早く逃げられない。

 小原には、誘拐発生の1963年3月31日と最初の脅迫電話があった同年4月2日の両日、郷里の福島県内で複数の目撃者が存在していたが、刑事の平塚八兵衛らは徹底的なアリバイの洗い直しを実施した。3月31日の目撃者は雑貨商を営む老婆で、親戚の男性から、野宿をしている男を追っ払ったという話を聞いた翌日に、足の不自由な男が千鳥橋を歩いているところを目撃したという。裏付け捜査により、この男性はワラボッチ(防寒と飾りを兼ねて植物にかぶせる藁囲い)で野宿している男を追っ払った後、駐在所に不審者について報告し、放火されることを防ぐためその日の夕方にワラボッチを片付けた。その日付は、駐在所の記録で3月29日であることが判明。つまり、小原が老婆に目撃されたのは、その翌日の3月30日であることが分かった。

 一方、4月2日の目撃者は、この男性の母親。十二指腸潰瘍を患っていた孫(この男性の長男)が、一時中断していた通院を再開した日に、小原を目撃したという。裏付け捜査により、この孫は2月2日から3月8日まで通院。その後、3月28日と4月2日にも通院しているという記録が残っていた。しかし、当日の孫の腹痛は、前夜の節供での草餅の食べ過ぎが原因と判明。節供とは上巳の節供のことで、この土地では旧暦で祝っていた。その年の旧暦3月3日は3月27日。したがって、病院に運ばれた日(目撃された日)は、その翌日の3月28日ということになる。さらに、小原は、3月29日に実家に借金の申し入れをしに行ったものの、何年も帰省していない気まずさから、実家の蔵へ落とし鍵を開けて忍び込み、米の凍餅を食って一夜を明かしたと供述しているが、小原の兄嫁によると、当時は落とし鍵ではなく既に南京錠に替えられていたことが分かった。また、その年は米の不作により米の凍餅は作らなかった(芋餅を作った)ことも分かった。また片足が不自由であり身代金受け渡し現場から素早く逃げられない問題については、アリバイ崩しの過程で実際には身のこなしは敏捷であることが判明した。大金の金額については、脅迫電話テープの公開直後に(身代金から愛人に渡した残りの金額に相当する)「30枚ほどの一万円札を持っているのを見た」という情報が実弟を名乗る人物からもたらされていたことや、身代金が犯人に奪われた直後の一週間で小原がほとんど収入がないのに42万円もの金額を支出していたことが明らかになった。

 小原は前橋刑務所から東京拘置所に移管されたが、別件取調べは人権侵害であるという人権保護団体からの抗議もあり、聴取は10日間に限定された。小原は黙秘を続けたのちに1963年4月に得た大金の出所を「時計の密輸話を持ちかけた人物から横領した」と述べたが、その人物の具体的な情報は話さなかった。その点を問い詰められて、4日目に金の出所についてのそれまでの供述が嘘であることを認めたものの、それ以後は再び黙秘したりする状況が続いた。平塚ら取り調べの刑事たちは、金の出所以外の供述にも嘘があるのではないかと何度も問いただし、さらにはアリバイを崩す捜査の過程で福島県に住む小原の母親に会った際、「もし息子が人として誤ったことをしたなら、どうか真人間になるように言って下さい」と言いながら母親が土下座をしたエピソードを、平塚自らが再現して小原に伝えたりもした。しかし、事件との関係は否定し続けたまま拘留期限を迎えることになった。

 小原は前橋刑務所へ戻されることになったが、最後の手段としてFBIで声紋鑑定をすることになり、音声の採取のため、1965年7月3日に取調べ室に呼ばれた。これについて、当初刑事たちはあくまで「雑談」だけをするよう命じられていた。しかし平塚たちは直属上司の許可を得て、福島で調べてきたアリバイの矛盾を初めて直接小原に伝えた。追い込まれた小原はついに、それまでの「東京に戻ったのは4月3日である」という自身の主張が事実とは異なり、4月2日には東京にいたことを「日暮里大火を山手線か何かの電車から見た」と述べる形で認めた。この火災の発生は、1963年4月2日の午後。最初の脅迫電話が掛かってきた時、テレビのニュースでこの火災のことを報じていたのを、被害者の祖母が覚えていた。それでも小原は1963年4月に持っていた金は事件と無関係と言い張ったが、平塚らは「これだけ材料を突きつけられてまだ逃れられると思っているのか」と小原を追い詰め、それからほどなくして小原は金が吉展ちゃん事件と関係のあるものだと供述した。翌7月4日に警視庁に移された小原は、営利誘拐・恐喝罪で逮捕され、その後の取り調べで全面的に犯行を自供した。

 被害者は1965年7月5日未明、小原の供述から三ノ輪橋近くの円通寺(荒川区南千住)の墓地から遺体で発見され、秘密の暴露となった。遺体を検証した東京都監察医の上野正彦は、被害者の口元から2年で発芽するネズミモチが生え出しているのを見つけ、確かに土中に2年も埋められていたことに改めて冥福を祈ったという。その後、被害者の供養のため、円通寺の境内には「よしのぶ地蔵」が建立され、奉られている。

 1966年3月17日、東京地方裁判所が小原に死刑を言い渡すが、弁護側が計画性はなかったとして控訴。同年9月から控訴審として計3回の公判を行うも、11月に東京高等裁判所は控訴を棄却。弁護側が上告するが、1967年10月13日、最高裁判所は上告を棄却し死刑が確定した。4年後の1971年12月23日に死刑が執行された。小原は服役中平塚に何度か手紙を送ったという。平塚によると、処刑当日、刑が執行された宮城刑務所から看守より「真人間になったから平塚さんによろしく」という小原の言葉が電話で伝えられたという。平塚は1975年に退職した後、自分が逮捕して死刑となった人物の墓参をおこなった際に、小原が先祖代々の墓に入れてもらえず、その横の小さな盛り土がされただけの所に葬られていたことをみて「胸をグッと突かれたよう」になり、花と線香を手向けたものの合掌することを失念したと述べている。教誨師によれば小原の親族は死刑確定後一度も面会に訪れなかったという。

 死刑確定後教誨師が慰めに訪れたが、小原は受け入れようとはせず「自分は創価学会の信者だ!坊主どもを折伏して見せる」と豪語する始末だったという。そのため「何か拠り所を持たせてやらなければ」ということで、教誨師が小原に勧めたのが短歌だった。小原の短歌は同人誌『土偶』主催者の指導により上達。小原は「福島誠一」のペンネームで投稿し、朝日歌壇に選ばれたりした。死刑執行後の1980年に出版された歌集『昭和万葉集』(講談社)に小原の短歌が掲載され、3年後の1983年に『氷歌 - 吉展ちゃん事件から20年 犯人小原保の獄中歌集』(中央出版)が出版される。「福島誠一」の名前は「今度生まれ変わる時は愛する故郷で誠一筋に生きる人間に生まれ変わるのだ」という願いが込められていた。彼が投稿した短歌は370首にも及んでいる。

 死刑前日に小原が詠んだ短歌は
「怖れつつ想いをりしが今ここに 終るいのちはかく静かなる」
「世をあとにいま逝くわれに花びらを 降らすか窓の若き枇杷の木」
「静かなる笑みをたたえて晴ればれと いまわの見ずに写るわが顔」
「明日の日をひたすら前に打ちつづく 鼓動を胸に聞きつつ眠る」
この4首である。小原の死刑執行後被害者の母親は小原の遺した歌を読み、「あの人がこんなきれいな気持ちになれた代償が、吉展の死だったとしたら、やはり私どもにとっては大きすぎる犠牲ですね。まあ、あの人がこんな人間になって死んでいったことは、せめてもの救いですけど…天国で、吉展をかわいがってほしいですね」と語っている。

 この事件を一つのきっかけとして、1964年、刑法の営利誘拐に「身代金目的略取」という条項が追加され、通常の営利誘拐よりも重い刑罰を科すよう改められた。この事件を題材に本田靖春はノンフィクション『誘拐』を執筆、第39回文藝春秋読者賞と第9回講談社出版文化賞を受賞し、1979年には『戦後最大の誘拐 吉展ちゃん事件』として、後述の通りテレビドラマ化もされた。小原の逮捕・犯行自供、被害者の遺体発見を受けて1965年7月5日朝、NHKが放送した『ついに帰らなかった吉展ちゃん』は、ビデオリサーチ・関東地区調べで59.0%の視聴率を記録する。これは、今日に至るまでワイドニュースの視聴率日本記録となっている。

 1971年12月23日死去(享年38)