シルヴィア・マリー・ライケンス(Sylvia Marie
Likens 1949年1月3日生)
[アメリカ・殺人被害者]
10月24日、ガートルードは地下室へ赴き、体罰用の木製のヘラでシルヴィアを殴打しようと試みた。しかし、ガートルードはシルヴィアを打ち損ない、外れたヘラは偶然に彼女自身に当たった。ハバードはシルヴィアの身体を踏みつけ、箒の柄で頭部を幾度も強打したため、彼女は地下室で昏倒した。10月26日火曜日の夕方に、ガートルードは子供達に、シルヴィアを(今回は熱湯ではなく)生ぬるい湯に入れてやるよう命じた。ステファニーとホッブスは、シルヴィアを地下室から上の階へ運び、服を着せたまま湯の入ったバスタブに放り込み、その後、服を脱がせて床のマットレスの上に全裸の状態で寝かせた時点で、シルヴィアが息をしていないことに気づいた。ステファニーは蘇生処置を試みたが、シルヴィアは蘇生することなく死亡した。ステファニーはパニックに陥り、ホッブスに警察へ通報するよう命じた。警察が到着すると、ガートルードはシルヴィアに強引に書かせた手紙を提出した。その手紙には、体操服の窃盗を除いて彼女が実際には行っていない様々な悪事の自白や、『シルヴィアが少年グループから金銭を貰う代わりにセックスすることに合意したが、少年たちの車で連れ回されたうえ、幾度も殴られ、煙草の火で火傷させられて、腹部に文字を刻まれた』という内容の文章が記されていた。しかし、ジェニーが警官の1人に「ここから私を連れ出して。何だって話しますから。」と囁き、保護されたことで事件が明らかとなった。ジェニーの証言によってシルヴィアの遺体が発見されたことから、警官たちはバニシェフスキー家のガートルード、ステファニー、ポーラ、ジョン・ジュニアのほか、ホッブスとハバードをシルヴィアへの殺人容疑で逮捕した。その他の近所の若者である、マイク・モンロー、ランディ・レッパー、ジュディ・ルーク、アンナ・シスコーは、傷害容疑で逮捕された。バニシェフスキー家のガートルード、ステファニー、ポーラ、ジョン・ジュニアのほか、ホッブスとハバードには、裁判まで保釈が認められなかった。
シルヴィアの遺体には、多数の火傷や打撲傷のほか、筋肉や神経への損傷が見られることが検死報告より明らかとなり、さらに、シルヴィアは断末魔の苦痛の中で唇が殆ど断裂するほど強く噛み締めていたことが判明した。また、膣口は腫れ上がってほとんど閉じていたが、膣管を検査した結果、シルヴィアの処女膜は損傷を受けていなかったことから、ガートルードによるシルヴィアは淫売であり妊娠しているとの主張には信憑性に強い疑いが持たれた。なお、直接の死因は脳腫脹と脳内出血、および過酷且つ長期にわたる皮膚への損傷によるショック症状が原因であった。
公判では、ガートルードは心神喪失を理由に無罪を訴え、また、欝や喘息などの病気がひどく、子供たちの管理などできなかったと主張した。一方、ポーラ、ジョン・ジュニア、ホッブズ、ハバードら未成年を担当した弁護士らは、彼らはガートルードに強制されて犯行を行ったのだと主張した。ガートルードの11歳の娘であるマリー・バニシェフスキーは、弁護側の証人として裁判所に出廷したが、彼女は取り乱して、ホッブスが焼けた針でシルヴィアの腹部に強引に文字を刻んだことと、ガートルードがシルヴィアを殴打し、地下室へ監禁したのを目撃したことを認めた。マリーの陳述が終了する際に、被告の弁護人は「私は、ガートルードが殺人を犯したことを非難する……しかし、心神喪失であった彼女に責任は無い!」と述べ、頭を軽く叩いた。
1966年5月19日、ガートルードは第一級殺人により有罪となったが、死刑を免れて仮釈放なしの無期懲役の判決が下された。また、ガートルードの娘のポーラは公判中に女児を出産し、母親と同じ名前の"ガートルード"と命名した。判決は第二級殺人による有罪で無期懲役であった。ホッブズ、ハバード、ジョン・ジュニアも故殺で有罪となり、それぞれ懲役2年から21年の判決を受けて少年刑務所へ送られた。1971年に、ガートルードと娘のポーラは控訴を行った。控訴審でポーラは故殺を主張し、控訴審の判決から2年後に出所した。また、ガートルードは第一級殺人により有罪となったが、判決は懲役18年の有期刑であった。
18年間の刑務所での生活においてガートルードは、裁縫工場で働き、若い女性受刑者の母親役を務める模範囚であった。1985年に仮釈放を受けた頃には、ガートルードの刑務所内では"ママ"のニックネームで知られていた。ガートルードの仮釈放に関するニュースは、インディアナ州の社会に大きな波紋を与えた。ジェニーとその家族は、テレビに出演してガートルードへの批判を行った。2つの犯罪対策グループのメンバーが、罪の無い人を守り、性的虐待に反対する連盟を結成して、インディアナ州を回ってガートルードの仮釈放に反対しながらライケンス一家の支援を行い、歩道でのピケ活動を始めた。2ヶ月の間にこのグループは、ガートルードの仮釈放に反対する署名をインディアナ州の市民から4500件も集めたが、これらの努力にも関わらず、ガートルードの仮釈放は認められた。仮釈放のための公聴会の席で、ガートルードは「あの事件で私がどんな役割をしたかは分からない……クスリを常用していたから。私は本当の彼女を知らなかった……でも、シルヴィアの身に起きたことについては全ての責任を私が負います。」と述べている。ガートルードは1985年12月4日に出所し、ナディーン・ヴァン・フォッサンへと改名し、アイオワ州へ移住した。1990年6月16日、アイオワ州で肺ガンにより60歳で死去した。当時、既に結婚してインディアナ州ビーチグローブに住んでいたジェニーは、ガートルードの訃報を新聞で知り、記事の切抜きに"良いニュースだ。忌々しいガートルードの婆さんが死んだ。私は満足だよ、ハハハ!"と記したメモを付けて母親へ郵送した。その後、ジェニーは2004年6月23日に心筋梗塞により54歳で死去した。インディアナ州東ニューヨーク通り3850番にあった、シルヴィアが拷問され、殺害される事件があって以降、44年間に渡り荒れ果てた空き家であった家は、2009年4月23日についに取り壊された。
1965年10月26日死去(享年16)