山本昌二

山本昌二(やまもとしょうじ 1926年生)
 [滋賀県警本部長]



 グリコ・森永事件を皮切りに食品会社を標的とした一連の企業脅迫事件が続く最中、1984年11月7日にハウス食品工業総務部長宅に脅迫状が届く(ハウス食品脅迫事件)。当時社長の浦上郁夫宛ての脅迫状は現金1億円を要求する内容で、現金受け渡し日は11月14日、場所は京都市伏見区のレストランというように指定されており、別の脅迫状には青酸ソーダ混入のハウスシチューが同封されていた。

 11月14日、指定されたレストランの駐車場には現金1億円を積んだ車を待機させ、車内にはハウス食品社員に変装した大阪府警察本部刑事部捜査第1課・特殊事件係の刑事がおり、周囲には京都府警察本部刑事部の刑事が多数配置された。20時20分、脅迫状の予告どおり犯人からの総務部長宅に電話連絡がかかる。女の子の声で録音されたテープで現金受け渡し場所を指定。これを機に合同捜査本部は大阪・京都に刑事を多数配置した。指定場所へ行くと別の場所を指定するメモが残されており、場所変更は4回繰り返された。この間、名神高速道路京都南インターチェンジ付近で、警戒中の京都府警察本部刑事部の刑事がキツネ目の男を発見し、合同捜査本部に報告する。この日、キツネ目の男は3回にわたって刑事に目撃される。幾度かの場所変更指示によって、現金を乗せた車が大津サービスエリアに向かった。

 滋賀県警察本部には合同捜査本部から現金授受への捜査共助を要請されていたが、「名神高速道路エリア内は大阪府警察本部・特殊事件係を配置するので、滋賀県警察本部は名神高速道路に入らないように」と言われていた。しかし、滋賀県警察本部刑事部捜査第1課は突発事案に対応すべく刑事2人を大津サービスエリアに配置する。そして大津サービスエリアに配置された刑事はキツネ目の男を発見する。キツネ目の男は尾行点検をしたり、ベンチに何かを張り付けるなどの特異動向があったものの、職務質問などは禁じられていたため、刑事はそのまま撤収したという。

 滋賀県警察本部刑事部捜査第1課の刑事が撤収した後、大津サービスエリアに到着した大阪府警察本部刑事部捜査第1課・特殊事件係の刑事に現金輸送車の様子を伺う不審者が目撃される。不審者の人相は、丸大脅迫事件に目撃されたキツネ目の男と一致。しかし刑事に尾行や職務質問する権限を与えられていなかったため、キツネ目の男はそのまま一般道路の方へ去って行った。現金輸送車は指示通り草津パーキングエリアへ向かった。そこで、「名古屋方面に向かい、白い布が見えたら、白い布の下の缶に入れた指示書を見ろ」という指示書を受ける。現金輸送車が到着するよりも先に、白い布が草津パーキングエリアから東へ5kmの地点の道路脇の防護フェンスに取り付けられているのが発見された。道路管理局の巡回記録によると、14日20時50分から21時18分の間に取りつけられたものと判明。しかも白い布がつけられた防護フェンスの付近には無線通信が不能の場所があったため、合同捜査本部にとっては最悪の展開となる。その場所は、県道川辺御園線が交差していた。合同捜査本部はこの県道と名神の交差部分を封鎖したが、問題の空き缶がなかった。犯人らしい男も姿を見せず、22時20分に捜査は打ち切られた。

 一方、白い布があった場所の付近で、パトカーでパトロールをしており一連の事件捜査を知らない滋賀県の所轄署外勤課員が、夜なのに無灯火の不審な白いライトバンを発見。外勤課員が職務質問するために白のライトバンに駆け寄り懐中電灯を照らすと、運転席に男がいた。しかし、白のライトバンは急に発進。白のライトバンはパトカーと激しいカーチェイスを繰り広げパトカーを振り切った。21時25分、白いライトバンが発見されたが、男の姿はなかった。白いライトバンは11月12日に盗難された車と判明した。パトカーが不審車の前方をふさぐように停車せずに、横付けしたことを失策と指摘する論調もあった。男を取り逃がすという失態を演じてしまった滋賀県警の当時の本部長・山本昌二は「事件との関連性を疑われる盗難車両の犯人を捕捉できなかったことは大変残念であり、また申し訳ないことと思っている。責任は自分にある」と記者会見で謝罪した。取り逃がした滋賀県の所轄署外勤課の警察官は責任を取って後に辞職した。

 その後もグリコ、森永製菓に加えて、不二家、明治製菓、ロッテ、駿河屋に脅迫が続いたが、滋賀県警は脅迫のたびに当時の失態を責められることになる。そして1985年8月7日、ハウス食品事件で不審車両を取り逃がし、世間からの厳しい追及を受けていた山本は自身の退職の日に、本部長公舎の庭で頭から灯油をかぶって焼身自殺を図った。遺書は残されていないが、死の直前に「肩身の狭い思いをさせて済まない」と兄に電話をしており、一般に失態の責任を取ったと解釈されている。ハウス食品事件の失態の責任を全て負わされたことに抗議するための自殺だったとする説もある。山本はノンキャリアからの叩き上げであった。

 山本の死から5日後の8月12日、犯人側からマスコミ宛へ意外な声明文が送りつけられる。「しが県警の 山もと 死によった しがには ナカマもアジトも あらへんのに あほやな」「たたきあげの 山もと 男らしうに 死によった さかいに わしら こおでん やることに した」「くいもんの 会社 いびるの もお やめや」「くいもんの 会社 いびるの やめても まだ なんぼでも やること ある 悪党人生 おもろいで」との、自殺した山本への香典代わりとして脅迫を終結するといった終息宣言の手紙であった。

 奇しくも犯人から終息宣言の手紙が送られた8月12日、ハウス食品社長の浦上郁夫は事件の終息を同社の創業者・前社長であり父親にあたる浦上靖介の墓前に報告するために日本航空123便に搭乗し、日本航空123便墜落事故に巻き込まれ事故死するという悲劇に見舞われている。

 1985年8月7日死去(享年59)