佐藤次郎

佐藤次郎(さとうじろう 1908年1月5日生)
 [テニス選手]



 群馬県出身。早稲田大学卒業。佐藤次郎のテニスは粘り強いフットワークを最大の持ち味とし、フランス人選手アンリ・コシェのプレースタイルから大きな影響を受けた。彼はフォアハンド・ストロークを早いタイミングで打ち、両足でジャンプすることもあったほどだという。鋭いボレーを、ベースラインから打つこともあり、攻撃のタイミングを見計らう試合巧者でもあった。いかつい容姿から、世界のライバル選手たちからは“ブルドッグ佐藤”と呼ばれた。

 1930年の全日本テニス選手権でシングルス優勝。1931年からデビスカップの日本代表となる。この年の全仏選手権で初の4大大会準決勝に進出し、世界ランキング9位に入る。1932年、ウィンブルドン選手権大会の準々決勝で前年優勝者のシドニー・ウッド(アメリカ)を破った。続く準決勝で敗れた相手は、イギリスのバニー・オースチンであった。この年は年末の全豪選手権でも、シングルスでハリー・ホップマンとの準決勝まで進み、混合ダブルスではメリル・オハラウッドとのペアで準優勝を記録した。

 1933年は日本テニスの歴史を通じて、最も輝かしい記録が生まれた年になる。佐藤は全仏選手権とウィンブルドン選手権の2大会連続でベスト4に進出し、とりわけ全仏選手権の準々決勝でイギリスの英雄フレッド・ペリーを破った。ペリーは今日に至るまで“イギリスのテニスの神様”として祭り上げられている名選手である。そのペリーを破ったことで、佐藤の世界的な評価はさらに高まった。ウィンブルドンのダブルスでは布井良助とペアを組んで決勝に進み、当時のフランスのテニス界で「四銃士」と呼ばれ強豪選手だったジャン・ボロトラ&ジャック・ブルニョン組から第1セットを奪った。この年はデビスカップの対オーストラリア戦で、当時の世界ランキング1位であったジャック・クロフォードを破ったが、本人はシングルス第2試合で当時17歳のビビアン・マグラスに敗れたことから、日本チームが2勝3敗で敗退したことで深い精神的なショックを受けた。全米選手権には1932年と1933年の2度出場しているが、こことは相性が悪く、4回戦止まりで終わっている。

 当時の男子テニス世界ランキングは、イギリスの『デイリー・テレグラフ』紙の評論家であったウォリス・マイヤーズが選んでいたもので、現在のようなポイント制とは大きく異なっていたが、1933年度の1位はジャック・クロフォード、2位はフレッド・ペリーで、佐藤は彼らに続く第3位にランクされた。佐藤などの活躍を受けて、日本でも1933年10月に「テニスファン」という月刊雑誌が創刊されるまでになった。

 ところが1933年10月後半から、佐藤の健康状態に異変が見え始める。彼は海外遠征に出始めた頃から、慢性の胃腸炎に悩まされてきた。しかし彼は日本のエースとしての責任感が強く、無理を押して試合出場を続行した。日本庭球協会で主導権争いをしていた早稲田派幹部からのプレッシャーも大きく、当時「デビスカップ選手派遣基金」を募集するにあたり、佐藤は必要不可欠な存在であったので、どうしてもデ杯出場を辞退することができなかったのである。

 1934年2月、佐藤は「テニスファン」記者の1人であった岡田早苗との婚約を発表した。この年の3月20日、佐藤はデビスカップの日本チーム主将として「箱根丸」でヨーロッパ遠征に出発するが、その帰途にあった4月5日に、マラッカ海峡にて投身自殺を遂げた。まだ26歳の若さだった。箱根丸の彼の船室には、数通の遺書が残されていた。ペリーやクロフォードなど、当時の男子テニス界の頂点にあった選手たちと互角に戦ってきた佐藤の突然の死は、世界のテニスファンにも大きな衝撃を与えた。5月6日、早稲田大学のテニスコートで日本庭球協会主催の慰霊祭が開かれた。

 佐藤次郎はテニスについて「庭球は人を生かす戦争だ」という持論を語っていた。このような考え方は、1930年代の日本人の大半が持っていたものである。オーストラリアのテニス・ジャーナリスト、ブルース・マシューズは自著で、「当時の観客は(佐藤の試合を通して)生死をかけた闘いを見ていることに気づかなかった。(今となっては)探り得ない佐藤の心は(5度の準決勝敗退を)天皇と日本国民を失望させる、耐え難い屈辱とみなした」と詳しい説明を述べている。

 1934年4月5日死去(享年26)