小堀保三郎

小堀保三郎(こぼりやすざぶろう 1899年8月25日生)
 [実業家/自動車技術者]



 栃木県生まれ。1912年、明治小学校を卒業後、当時の子弟の多くがそうであったように奉公に出る。そのため高等教育を受ける機会に恵まれなかったが、終始独学で社会人としての基礎的教養の涵養に励んだ。1924年、大阪に出て、帝国通信社の記者として活躍。1934年、大阪電気鉄道に嘱託として入社。1937年、大阪・下尼崎に大阪工機製作所を創設し、起重機製造工場の経営に乗り出す。1941年、事業拡張のため工場を大阪市城東区に移し、軍用機のエンジン取り付け専用小型クレーンを開発など事業の発展に励む。1957年、事業拡大と経営基盤を固めるために大同工業への資本参加を求め、社名を「大同輸送機工業」とした。1960年、石川島重工業への資本参加を求め、社名を「関西輸送機」とするも、2年後の1962年に一切の経営権を石川島重工業に譲渡した。1962年、東京都品川区伊皿子に転居し、住居近くの王鳳寺の境内にあった一軒家を借り受け(後に港区三田に移転)、新機種開発を目的とした「GIC(グッドアイデアセンター)」を設立。サンドイッチ自動製造機の開発などで数多くの特許を取得。

 1964年、独創的なアイデアのもと、自動車の安全ネットの開発を手始めとしてエアバッグの開発に着手。エアバッグ開発の際、確たる技術的裏付けを得るために東京大学をはじめとして国公私大の教授陣や立川の防衛庁航空医学実験隊などの研究機関の協力を求め、開発資金に私財を投じた。小堀が考案した「衝突時乗員保護のシステム」は衝撃加速度検出装置、弾性防御袋(エアバッグ)、気化ガス発生装置などで構成されていた。尚、このとき既に小堀は運転席、助手席、後席エアバッグに加え、側面のサイドエアバッグやルーフエアバッグも考案していた。また、乗員のみに留まらず対歩行者安全装置にも拡げ、歩行者のバンパーへの接触を検出し、ボンネット上に倒れこむ前にポール状のエアバッグをネットと共に架長して、歩行者をすくい込む歩行者用エアバッグも考案している。その結果、エアバッグ関連の特許取得は世界14カ国に及ぶこととなり、小堀は企業家として新たな道を歩むこととなる。

 しかし、その時代の産業界や省庁の安全センスと世界に先駆ける英断(火薬の使用が当時の日本の消防法に抵触してしまうことから、日本でエアバッグが開発されることはなかった)に出会うことなく、やがて俎上から消え、これら特許はその期限を終える。現代において世界中の自動車に至極当然のように装着されているエアバッグも、当時としては小堀の発案はあまりにも奇抜なものだったため、エアバッグ発表の場では日本人の関係者からは失笑を買い、相手にされることはなかった。

 結局、小堀はエアバッグの実用化をその目で見ることなく1975年8月30日午前、開発費用捻出の困難を理由に港区三田のGIC事務所内にて妻・艶子とともに頭からビニールをかぶりホースを引き込んでガス心中した。

 小堀の死後、1980年にドイツの自動車メーカー、メルセデス・ベンツがSクラスで実用化したのを皮切りに世界各国で実用化され、日本においても1985年にホンダ・レジェンドに採用されたことをきっかけに徐々に採用車が増え、今では殆どの乗用車に装着されるまでにその安全性の高さが認知された。

 2006年、特定非営利活動法人「日本自動車殿堂」に殿堂入り。

 1975年8月30日死去(享年76)