谷啓

谷啓(たにけい 本名:渡部泰雄 1932年2月22日生)
 [コメディアン/俳優/トロンボーン奏者]



  東京出身。非常な恥ずかしがりやながらサービス精神のある子供であった。また、小学生時代は、級友の前で落語を演じていた。中学入試に失敗したため、国民学校高等科に1年通う。その後、軍需工場で働く。

 1945年4月に旧制逗子開成中学校に進学。入学式の時のブラスバンドの演奏でトロンボーンに出会い、一目惚れして、吹奏楽部に入部。8月に敗戦を迎えると、進駐軍がジャズを持ち込み、それを聞いて「こんなに楽しい音楽があったのか」と夢中になる。また、大量に上映されたアメリカ産のコメディ映画にも夢中になる。

 逗子開成高校時代から、キャバレーでバンドマンのアルバイトをしていた。関東学院大学経済学部に進むが、高校時代の音楽仲間を追って中央大学経済学部に転学。音楽研究会に所属し、バンドを組んでキャバレーや米軍向けに演奏していた。一方、喜劇俳優にもなりたくて、劇団民藝や俳優座を訪ねたが相手にされなかった。在学中に米軍相手のコミカルな演奏が原信夫に注目され、シャープス&フラッツに参加。本格的な演奏のほかに、トロンボーンのスライドを足で動かして吹くなどのコミカルな演奏も行う。

 芸名の由来は、アメリカの名コメディアン、ダニー・ケイを日本語風にしたもの。「クレージーキャッツ」の他のメンバーはみな、ミュージシャン志望で役者になろうとは全然思っていなかったが、ただ一人、谷だけがコメディアン志望でもあった。

 1953年、フランキー堺から「スパイク・ジョーンズのような音楽をやろう」と誘われ、谷もスパイク・ジョーンズの大ファンだったため、フランキー堺とシティ・スリッカーズに参加し、音楽ギャグを盛んにやる。だが、フランキーが日活に引き抜かれ、フランキー不在のシティ・スリッカーズは「普通のジャズバンド」になってしまう。そのため、同じバンドの植木等の紹介でハナ肇に会い、ハナのバンド「キューバン・キャッツ」に1956年2月に移籍。のちにバンド名はクレージーキャッツと変わる。ジャズ喫茶に出演し、多彩なギャグで人気を博す。

 1959年の『おとなの漫画』以降、コメディアンとして多くのTVバラエティ番組に出演。「ガチョ~ン」「びろーん」「アンタ誰?」「ムヒョーッ」といった各種のギャグで不動の人気を獲得した。

 俳優としてもテレビドラマや映画に多数出演している。1975年には、かねてからの夢だった本格的ミュージカル、森繁久彌主演の『屋根の上のバイオリン弾き』に4年の間出演した。演出家の福田陽一郎の「好みの役者」で、福田が演出する舞台に多数出演している。

 1975年ごろから、自身のバンド「谷啓とザ・スーパーマーケット」を結成し活動していた。またハナ肇が晩年に結成したバンド「ハナ肇&オーバー・ザ・レインボー」にも参加し、ハナが亡くなる直前まで活動していた。

 晩年はバラエティ番組への出演がめっきりと減った。2006年から2009年まで『美の壺』(NHK教育テレビジョン)に出演、飄々としたご隠居の主人として番組の案内役を務めた。

 2008年ごろから体調を崩し始め、2009年3月までにレギュラー番組をすべて勇退し、療養生活に入っていた。物忘れがひどくなっており、認知症の傾向もあったという。

 2010年9月10日、私邸の階段から転落し、頭などを強打したために杏林大学医学部付属病院に搬送されたが、9月11日午前5時7分脳挫傷により急逝。葬儀は密葬として執り行われ、親族以外はクレージーキャッツのメンバーの犬塚弘、桜井センリが参列した。

 9月20日には谷のこれまでの業績を讃えてしたまちコメディ映画祭in台東において谷に「第3回コメディ栄誉賞」を授与した(ただし、生前から受賞が決定していた)。

 2010年11月11日には関係者対象の「お別れの会」がザ・プリンスパークタワー東京で行われ、約800人が参列した。11月19日、第52回日本レコード大賞で特別功労賞を受賞。

 2010年9月11日死去(享年78)