ピストン堀口

ピストン堀口(ピストンほりぐち 本名:堀口恒男 1914年5月7日生)
 [プロボクサー]



 警察署長の子として栃木県に生まれる。旧制真岡中学時代は柔道部の主将を務め、県下で有名な強豪選手であった。真岡中学の先輩で「日本ボクシングの父」と称される渡辺勇次郎が弟子達を率いて真岡市でボクシングの模範試合を行った際、堀口は腕試しのつもりで飛び入り参加しプロボクサー相手に2ラウンドを戦い、渡辺に度胸と才能を評価されて1932年に上京し、日本拳闘倶楽部へ入門した。自己流でトレーニングをして、上京からわずか半月後に初試合を行いKO勝ちを収める。翌1933年にプロデビュー。その後、かつての名選手岡本不二の指導を受け、デビューから5引き分けを挟んで47連勝という驚異的な記録を残した。

 あくまで本名の堀口恒男が正式なリングネームなのだが、対戦相手をロープに追い詰めての休まぬ左右の連打を得意とし、「ピストン戦法」と呼ばれたことから、次第に「ピストン堀口」の呼称が定着していった。その無類のスタミナは、10分間連打でミット打ちを続けてなお息切れ一つしなかったという。堀口の連打が始まると「わっしょい、わっしょい」の大合唱が起こる程の人気であった。ただし、1936年にハワイ巡業を行った際、日本では熱狂的に受け入れられた捨て身のピストン戦法は当地の新聞に「ボクシングと呼べるものではない」と酷評されている。この頃、既にアメリカのボクシング界ではフットワークやディフェンスの技術が重要視され、攻防一体のスタイルが主流となっており、ディフェンスを軽視した堀口のファイトスタイルは時代遅れのものであった。この時の体験が契機となり剣道や空手など武道を通じて精神修養に励み、プロボクサーとしてではなく拳闘家として精神力と肉体の練磨に一層努めるようになった。

 1936年5月8日、B・D・グスマン(フィリピン)を破り東洋フェザー級チャンピオンまで上りつめるなど、世界クラスの実力を持っていたが、太平洋戦争の影響もあり世界王座を獲得する機会には恵まれなかった。特に、1941年5月28日に両国国技館で行われた笹崎たけし戦は元同門という因縁や、笹崎の公開挑戦状に対し堀口が応戦し、舌戦を繰り広げたことなどにより大きな話題を呼び、日本ボクシング史上「世紀の一戦」と呼ばれるほど有名で、この試合に勝利して以降は「剣聖」宮本武蔵になぞらえて「拳聖」と称されるようになった。

 1950年4月22日、現役引退。それから半年後の同年10月24日午前0時過ぎ、東海道線の線路上を平塚方面から茅ヶ崎方面へ歩いている処を列車に撥ねられて轢死。泥酔して自宅に近い下車駅(茅ヶ崎)を寝過ごしてしまい、線路沿いを歩いて帰る途中だったといわれている。その死に際に関して、相模川の鉄橋近くで臨時の貨物列車が走ってくるのを目にし、列車が鉄橋に差し掛かるよりも先に、自分が鉄橋を走り抜けることが出来ると無謀にも判断し、線路上を列車に向かって走り始めたものの、鉄橋を渡りきる前に列車と衝突してしまい、あえなく落命した。といった証言もあるが、信憑性が疑わしい。

 1950年10月24日死去(享年36)