蔵馬竜也

蔵間竜也(くらまたつや 本名:蔵間龍也 1952年12月16日生)
 [大相撲力士]



 滋賀県出身。野洲中学校、八幡工業高校時代は、柔道、水泳、ラグビーなどで活躍。とりわけ柔道に関しては嗜み程度の稽古で2段という傑出した才能の持ち主であった。講道館の支部長が当時の時津風親方(元横綱・双葉山)と知り合いであった縁で、高校を中退し時津風部屋に入門、1968年9月場所で初土俵を踏んだ。

 下位時代から腰痛の持病に悩まされており、それが祟って幕下で4年足踏みし、初土俵から新十両昇進まで40場所を所要した。新入幕の頃は期待の新鋭と目された。左四つがっぷりに組んでの吊り寄り、右上手投げを得意とし、横綱・北の湖には17戦全敗と一度も勝てなかったが長い相撲で苦しめることが多く、千代の富士(のち、横綱)には新大関に昇進した場所で勝っている。新三役の1978年3月場所では貴ノ花、三重ノ海を破って技能賞を獲得し、5月場所では自身にとって最初で最後の関脇の地位に就いた。しかし、あまりにも左四つがっぷりで攻めの遅い取り口と執念に欠ける性格のため、上位陣との取組で得意の型となって善戦はしても大きく勝ち越すことがなく「善戦マン」と呼ばれた。腰痛の持病を抱えていたことも大成を阻んだといえる。1978年1月場所での10勝が最高で、その後はいわゆる「エレベーター力士」に終始した。対横綱戦は2勝44敗と極端に横綱に弱い部分があった。

 全盛期には美男ぶりと巧みなトークを売りに若三杉(後の横綱・2代目若乃花)と女性の人気を二分した。私生活も派手で大関の望みが消えてからは横綱・輪島を意識してリンカーン・コンチネンタルを乗り回し、千葉県市川市には蔵間御殿と呼ばれる豪邸を建て、夫人に女優の渡辺やよいを迎えた。

 1989年の9月場所前の健康診断で、慢性骨髄性白血病と判明(なお、本人が事実を明かして同情されることを嫌ったこともあって、当時公式には脾腫による1ヶ月の加療と発表されていた)。9月場所限りで現役を引退し年寄・錣山を襲名したが、病気のため1990年6月に廃業し、協会から去った。

 日本相撲協会を退職後はタレントに転向し、大相撲関係のコメンテーターとして活躍。『大相撲を101倍楽しむ法』、『大相撲ウソホントの新発見』、『まわしだけが知っている』などの著作がある。タレント・スポーツコメンテーターなどとして活躍し、ちょうど若乃花、貴乃花の若貴兄弟らが、若年層の相撲ファンを開拓していたこともあって、『ブロードキャスター』などのバラエティ番組でも相撲担当ゲストとしてわかりやすい語り口で人気を博し、元力士としては異例の活躍ぶりであった。一方、優勝予想が当たらないことで話題となり、力士当人から名指ししないでくれと泣きつかれた、という噂がまことしやかに流れた。

 蔵間が慢性骨髄性白血病に冒されている事実は、彼の家族や親類など、ごく限られた者にしか知らされなかった。実兄とHLAが一致し骨髄移植は可能であったが、成功率は50%の確率である上に失敗すれば即死に至ることもあるため、移植はハイリスクな治療であった。当時の移植成功率を考え、化学療法で奇跡の回復が起こるのを待った。しかし、1995年1月上旬に急性転化し緊急入院。兄からの骨髄移植手術も考慮された矢先の同年1月26日、慢性骨髄性白血病による急性転化多臓器不全のため、東京女子医大病院にて42歳で死去。死の数日前、カセットテープに残した「誰からも同情されたくはなかった」という主旨の遺言は、多くの人々の涙を誘った。妻が最後に蔵間から聞いたのは「早く(2人の子どもたちの待つ自宅に)帰ってやって」という言葉であった。 

 1995年1月26日死去(享年42)