高橋お伝の性器

 1879年、高橋お伝という女が東京・市ヶ谷監獄で斬首刑になったが、犯罪資料として彼女の性器が標本となり後世に遺されたという。



 お伝は1872年に夫を癩病で亡くした後、妾や街娼になり、逮捕まで小川市太郎というやくざ者と恋仲になった。1876年8月、市太郎との生活で借財が重なり、古物商の後藤吉蔵に借金の相談をしたところ、愛人になるなら金を貸すと言われ、吉蔵の申し出を受け入れた。8月26日、偽名を使い夫婦と偽装し東京・浅草蔵前片町の旅籠屋「丸竹」で同衾した。しかし、翌日になって吉蔵が突然翻意し、金は貸せないと言い出したため、怒ったお伝は剃刀で喉を切って殺害。翌日、財布の中の金を奪って逃走した。9月9日、強盗殺人容疑で逮捕。逮捕後、お伝は姉の敵討ちと称しなかなか白状せず、吉蔵は血迷って自分で自らの喉を切ったと主張した。しかし、診断書や関係者の証言で犯行が裏付けられ、ついに自供した。

 1879年1月31日、東京裁判所で死刑判決。市ヶ谷監獄で死刑執行。お伝の屍体は解剖され、その陰部をホルマリン漬けにして、当初は東京大学医学部に納められたが、やがて東京陸軍病院に移管された。

 1932年、医学者の清野謙次が学術雑誌「ドルメン」にその詳細な測定数値を発表した。
「大陰唇の長さ 左右 約8センチ」
「小陰唇の長さ 左6センチ 右6.3センチ」
「小陰唇の厚さ 左0.4センチ 右0.35センチ」
「陰核はやや大きくて半ばまで包皮に覆われているが、下半分は露出している」「膣壁は皺が多い」
「陰毛は主として陰阜に密生し、最も長きは6.5センチとす。日本人としては中等度の発生である。其毛質、粗大ならず……」