永利勇吉

永利勇吉(ながとしゆうきち 1920年12月9日生)
 [プロ野球選手/野球解説者]



 福岡県出身。嘉穂中学から立教大学へ進み、野球部へ入部。当初は外野手だったが捕手難だったため1942年の春季リーグ前に捕手へコンバートされた。同年の春季リーグでは打率.500で首位打者を獲得した。その後、アマチュアの強豪チームの別府星野組で荒巻淳らと共に都市対抗野球大会でプレーし、第19回都市対抗野球大会では本塁打2本を放ちこの大会チームは準優勝。永利は久慈賞を受賞した。1948年に阪急ブレーブスに入団。1950年に宇高勲に引き抜かれ西日本パイレーツへ移籍となる。西日本が解散し翌年に西鉄ライオンズへ移籍するが、スランプに陥ってしまい、1954年8月9日に兄の自宅で大量の睡眠薬を飲み自殺を図った。幸いこの自殺は未遂で済んだが、以降も永利の調子は上がらず、1955年に引退した。

 その後、九州朝日放送(KBC)野球解説者・日刊スポーツ野球評論家として活動していたが、1962年6月27日午前0時50分、福岡市博多区東領町2丁目の国鉄鹿児島本線博多-竹下間の6号踏切東60mの地点で、走行中の貨物列車に飛び込み自殺した。当時、野球評論を担当していた日刊スポーツの原稿用紙に書かれた遺書には「能力もなく忘れられるばかりで浮かびあがるとしてもますますあせって浮かびあがれない」などと書かれていた。死の直前の6月21日には、西鉄VS南海(平和台球場)のラジオ中継の解説、22日にはラジオ番組に出演したばかりだったという。

 1962年6月27日死去(享年41)