久保為義

久保為義(くぼためよし 1906年11月15日生)
 [映画監督]



 京都生まれ。1925年、旧制・京都市立第一商業学校卒業。第一銀行に就職。1926年、2年後輩の山中貞雄とともに、友人ですでに俳優や助監督をしていた2歳下のマキノ正博のもとを訪ね、正博の父・牧野省三の会社「マキノ・プロダクション」に入社、助監督となる。この年、現代劇『青い眼の人形』で正博が18歳で監督でデビューするが、このときに正博のオリジナルストーリーをもとに脚本を書いたのが19歳の久保であった。同作で久保も脚本家としてデビューとなった。さらに翌年の1927年1月28日に公開された『この母を見よ』で久保は20歳で監督としてデビューする。同年7月に正博と共同監督で『学生五人男 飛躍篇』を監督するが、正博の監督作2本の脚本を書いた後に徴兵され、奈良歩兵第38連隊に入隊する。

 2年半後の1930年に同社に復帰、正博と同じ長屋に住んで、『運命線上に躍る人々』を正博と共同監督、同年2月14日に公開される。翌1931年1月末までに7本ほど、単独や共同監督で撮ったところで同社が瓦解した。久保は、高村正次の設立した「宝塚キネマ」に参加、「久保文憲」名義で7本を監督した。

 1935年11月のマキノ正博による「マキノトーキー製作所」の設立に参加、同社設立第1作の『江戸噺鼠小僧』を正博と共同監督する。翌1936年1月の同社の体制発表に際して、「監督部」に名を連ねた。それから、1937年1月末までに14本のトーキーを撮ったが、同年4月初旬、同社は資金ショートにより解散する。久保は同年、J.O.スタヂオに移籍、かつて『江戸噺鼠小僧』を「山本正夫」のペンネームで書いた森田信義のプロデュースのもと、古川緑波原作の『歌う弥次喜多 京大阪の巻』、長谷川伸原作の『裸武士道』を撮ったが、その直後に再び徴兵され、福知山歩兵第20連隊に入隊する。31歳のころであった。

 2年後の1939年に歩兵中尉に昇進。1941年11月、少尉の階級で召集令状を受け、舞鶴から南方に出発。さらにフィリピンへ転戦、バターン半島攻略のときに上陸したキナワン岬付近で所属する第2大隊が全滅。1942年2月5日、戦死の報が伝えられた。

 久保はマキノに入るときにマキノ省三が一目見るなり役者をやったらどうやと云ったほどの美男子で、伊藤大輔監督も久保を役者にしようと躍起になったが、本人はどうしても役者をやろうとしなかった。それほどの二枚目だけに、召集令状を受けて舞鶴に出発するときの見送りは女ばかりで、その中には女優の原駒子や大倉千代子もいて、J.O.スタヂオの女優もたくさん来ていた。誰もバンザイを云わず、皆泣いていて、久保だけが軍服姿で汽車のデッキに立って敬礼したまま笑っていた。汽車が走りだしても皆じっとその場に立ちつくしていた。

 1942年2月5日死去(享年35)