剣晃敏志

剣晃敏志(けんこうさとし 本名:星村敏志 1967年6月27日生)
 [大相撲力士]



 大阪府出身。定時制高校を中途退学。アルバイトで働いていたが高田川部屋に入門。もともとはプロレス入門志望であった。

 上位力士相手に張り手をかますなど闘志溢れる相撲が取り口で、自らヒールを公言していた。1993年3月場所での対前頭7枚目浪ノ花戦の張り手合戦は、特に有名である。また、大関貴ノ浪には圧倒的に強く、「貴ノ浪の最大の天敵」とよく言われていた。差し身が上手く根は左四つだが、右四つでももろ差しでも相撲が取れて、投げや吊り、寄りにも鋭さがあった。

 大相撲の愛好家であるデーモン閣下からは、その悪役のイメージから「角界のならず者」とも呼ばれていた。それでも、そのイメージとは裏腹に母親思いの上、若い者からの人望はとても厚く、若手の力士達は、剣晃を目標にしている力士として挙げることが多かった。さらに師匠の高田川親方も、部屋の後継者にすることを考えていたといわれる。

 じわじわと番付を上げて、最高位の小結を2場所務めた。また三賞は、殊勲賞と敢闘賞を1回ずつ受賞している。また、1993年1月場所後に曙が64代横綱に昇進してからは、同部屋の鬼雷砲と共に、曙の横綱土俵入りの露払い又は太刀持ちをよく務めていた。

 しかし、幕内の地位で活躍中だった1996年11月場所ごろから体調を崩し、原因不明の高熱と貧血とに悩まされ、治療を続けながらも相撲を取っていた。翌1997年5月場所には、前頭11枚目で千秋楽に8勝7敗と勝ち越したが、これが生涯最後の出場場所となった。

 その後入院してからは、1997年7月場所以後一番も土俵に上がることなく休場を続けたため、番付が幕内から幕下まで急激に下がっていった。この入院後の検査の際に、病名が『汎血球減少症』と判明した。これは白血病の一種で、当時の日本では4例しか報告例が無い奇病であった。その1997年夏頃に剣晃の実母は、既に病院の医師から「残念ですが、息子さんは助かりません」と、非情の宣告を受けていたという。

 そして、地元の大阪で開催された1998年3月場所は幕下55枚目まで下がっていたが、その場所中の3日目に汎血球減少症による肺出血のため、わずか30歳の若さで現役死した。剣晃の生涯最後の言葉は「母ちゃん、眠りたい…」だったという。あまりにも早過ぎる死に、剣晃の親族や師匠の高田川親方、ほか部屋の弟弟子達らは皆葬儀の席で涙を流し続けていた。

 剣晃の四股名は、入門当時不摂生で顔色が悪かったことから「健康」を願ったものだった。普段から病気がちで痛風も患っていた剣晃は、大量の青汁を作り本場所・巡業の先々に持ち込み、健康管理に努めていた。なお、『剣』というものは折れるもの、不吉な意味合いがあるため、四股名を付ける時に師匠から止められたが、剣晃は頑として譲らずに一生その四股名で通していた。その剣晃の死後は、『剣』と言う字を使う事は避けるようになったと言う。

 ちなみに、幕内を務めた経験が有る力士で、現役中に夭折したのは1990年2月の龍興山以来だが、奇しくも剣晃と龍興山とは同じ大阪府出身で、さらに1967年6月生まれの同級生だった。その他、1967年度生まれで病死した元幕内力士には1999年12月の大翔鳳と2009年6月の大輝煌がおり、同年度生まれの幕内力士7人中、半数以上が故人となっている。

 1998年3月10日死去(享年30)