ゴンサロ・ロドリゲス

ゴンサロ・ロドリゲス(Gonzalo Rodriguez 1972年1月22日生)
 [ウルグアイ・レーシングドライバー]



 1988年から1994年までは地元やスペインのフォーミュラ・ルノーに参戦し、1995年からイギリスF3にステップアップ。ここでは目立ったような活躍は出来なかった。1997年からは国際F3000に参戦。レッドマン&ブライトから参戦した初年度は、事故によりハーフレースとなった第4戦ニュルブルクリンクでの6位入賞1回・ランキング22位に留まった。しかし翌1998年よりアストロメガに移籍、第10戦スパ・フランコルシャン・最終戦ニュルブルクリンクで勝利を挙げるなど活躍し、ファン・パブロ・モントーヤ、ニック・ハイドフェルドに次いでランキングで3位となり、チームメイトのガストン・マッツァカーネ(入賞が6位2回でランキング19位)を圧倒した。

 翌1999年もアストロメガから国際F3000に参戦した。この年はウェストのハイドフェルドが圧倒的な強さを見せたが、そんな中でも第2戦モナコで優勝、他にも2位2回などの活躍を見せ、新チームメイトのジャスティン・ウィルソンを圧倒、第9戦スパ終了時点ではランキング2位に位置していた。国際F3000にレギュラー参戦していた一方で、チーム・ペンスキーからの誘いを受け、並行してCARTにもスポット参戦。第13戦デトロイトでは、初参戦ながら12位入賞を記録。これが評価されたのか、第17戦ラグナ・セカにもスポット参戦が決まったが、結果的にこれがロドリゲスの運命を決めることとなった。ラグナセカの予選中、サーキットの難所として知られるコークスクリュー・コーナーを走行していた際、マシントラブルが発生。ロドリゲスのマシンは、そのままほぼフルスピードでコンクリートウォールに激突した後、飛び上がってウォールの反対側に裏返しで落下、ロドリゲスはこの事故で頭蓋骨骨折となり即死した。

 CARTでは、事故直後の第18戦ヒューストンでは、ロドリゲスのマシンと写真が展示されるメモリアルサービスが行われた。この年のCARTは3戦後の最終戦フォンタナでも、グレッグ・ムーアが死亡する事故が発生しており、安全性に疑問符が打たれたシーズンとなった。またレギュラー参戦していた国際F3000でも、死去直後の最終戦ニュルブクリンクでは、ステッカーを貼る等で哀悼の意を示すドライバーやチームが多数存在した。このレースで優勝したワットがロドリゲスのポイントを上回り、最終的にはロドリゲスはランキング3位となった。シーズン終了後、そのワットがオートバイの事故で、長期間意識不明となり、再び衝撃が走ることとなった。

 1999年9月11日死去(享年27)