クリトモ一休

クリトモ一休(くりともいっきゅう 本名:内堀欽司 1928年11月13日生)
 [漫才師]



 東京出身。は日本大学経済学部の卒業後、天理教の教師であったが結核を患いサナトリウムで療養している中、慰問に来た青空うれしと面識を得た。その後退院し1958年リーガル万吉の弟子となる。同年4月、同じリーガル万吉の弟子だった三休とコンビ結成。当時南千住にあった漫才の定打寄席『栗友亭』に因みクリトモ一休・三休とした。

 師匠譲りの上品で、テンポの良い芸風を身につけ、若手のホープとして期待された。1960年の第8回NHK漫才コンクールと1961年の第9回NHK漫才コンクールではいずれも3位となり、1962年3月の第10回NHK漫才コンクールで優勝。一躍実力派として認められ、師匠からも近々「リーガル」の名を許される話も出ていた。

 東京漫才の一角を担う若手として活躍し始め、順風満帆のように思われた矢先の同年5月3日に一休が鉄道の三河島事故に巻き込まれる悲劇が起こる。 事故が発生した当日は、早朝に東北地方で発生した地震と、東北本線古河駅で発生した脱線事故の影響で、国鉄常磐線のダイヤが乱れており、夜になってもわずかながらダイヤの乱れの影響が残っていた。定刻では、田端操車場発水戸行の下り第287貨物列車(D51 364牽引、45両編成)は通常では三河島駅を通過して、そのまま貨物線から進行方向右側の下り本線に入るが、上野発取手行きの下り第2117H電車(6両編成)が上野駅出発の時点で2分30秒ほど遅れていたため、三河島駅で2117Hを待避することになった(2117Hには横浜での仕事を終え帰宅途中の一休と三休が乗車していた)。21時37分頃、貨物列車の機関士は三河島駅の場内信号機を注意現示で進入した。しかし、その先の出発信号機の停止現示に通過直前で気付き、あわてて非常ブレーキを作動させたものの、減速が間に合わず安全側線に進入し、先頭の機関車と次位のタンク車(タキ50044)が下り本線を支障する形で脱線した。

 ちょうどその頃、2117Hは三河島駅での客扱いを終えて4分遅れで発車し、脱線した現場に差し掛かるところであった(三休は三河島駅で降車していたが、松戸に自宅がある一休は乗車したままだった)。運転士は非常制動処置を行ったが、間に合わずに下り本線を塞いでいたタキ50044に衝突。先頭車(クモハ60005)と2両目の車両(クハ79396)が脱線し、上り線を支障する形で脱線した。この時点では、2117Hは脱線こそしたものの、大きな怪我を負った乗客はいなかった。しかし、1~2両目の車両については、パンタグラフが架線から外れたため停電となり、乗客は桜木町列車火災事故(1951年)の教訓をもとに分かりやすく整備された非常用ドアコックを操作して列車外へ避難していた。また、6両目に乗車していた車掌は、運転士と連絡するために車内電話を操作したが応答がなかったので、車外に出て連絡を図ろうとしていた。一方、現場近くの三河島駅信号扱所の係員は、事故発生を受けて下り本線の信号を停止現示に切り替えた上で三河島駅の助役に事故発生を連絡し、助役は常磐線の運転指令に事故発生を通知した。助役は関係箇所に事故発生を通知し、下り線の後続列車の運行を停止させたが、この時点では支障状況が確認されていなかった上り線へは、事故発生通知のみ行った。

 一方、取手発上野行きの上り第2000H電車(9両編成)は、地震の影響で定刻より約2分ほど遅れて南千住駅を発車しようとしていた。同じころ、南千住駅の信号扱所では、三河島駅信号扱所からの上り線支障の電話連絡を受けて、出発信号を停止現示に変えようとしたが、2000Hは信号扱所の前を通過している最中であり、もはや止める手はなかった。2000Hの運転士は、事故発生を知らずに運転を続け、事故現場の近くに接近したところで、線路上を南千住方向に歩く乗客を確認し、非常ブレーキを掛けたが間に合わず、乗客をはねながら、上り本線上に停止していた2117Hの先頭車に激突した。これにより2117Hの先頭車と2両目の前部が原形を留めず粉砕された。上り2000Hは先頭車(クハニ67007)が原形を留めず粉砕され、2両目(モハ72549)は築堤下に転落して線路脇の倉庫に突っ込み、3両目(サハ17301)も築堤下に転落、4両目(モハ72635)が脱線した。

 この結果、線路を歩いていてはねられた2117Hの乗客と、2000Hの乗客と運転士の合計160名が死亡、負傷者296名を出す大惨事となってしまった。死傷者には、脱線した2000Hから外に出ようとして、高架下に転落した者もあったという。

 葬儀では師匠のリーガル万吉が「リーガル一休」の名を許す、と弔辞で読み感動させた。戒名は「久遠院法悟日欽信士」。事故後、相方を失った三休は畦元直彦(第一球)と一時期コンビを結成したり、地方の司会や演劇の舞台出演などで活動を続け、生計を立てていた。その後、1963年に春日照代と結婚し、春日三球・照代として再起した。

 1962年5月3日死去(享年33)