ウィリアム・マッキンリー

ウィリアム・マッキンリー(William McKinley 1843年1月29日生)
 [アメリカ・第25代アメリカ大統領]



 オハイオ州出身。最後の南北戦争従軍経験者の大統領であり、19世紀最後かつ20世紀最初の大統領。1880年代までにマッキンリーは共和党の全国的指導者であった。彼の選挙戦のテーマは、1890年のマッキンリー関税に代表されるような、繁栄のための公式として高率輸入関税を導入することであった。1896年の大統領選における共和党候補として、彼は対抗馬の民主党候補ウィリアム・ジェニングス・ブライアンに対して金本位制を掲げ、人種間での多元論を促進した。彼の選挙戦はマーク・ハンナによって指揮され、新たな選挙戦の広告スタイルを導入し、キャンペーン技術は最大のライバルであるウィリアム・ジェニングス・ブライアンを打ち破った。

 マッキンリーは大不況(1873年~1896年)特に1893年恐慌後、回復に向けて国を率い、金本位制を導入した。彼はスペインに対し、キューバでの蛮行を止めるように要求した。アメリカ合衆国の世論はスペインに対する憤慨で沸き立っていた。そして1898年、米西戦争が勃発した。戦争はアメリカの勝利で終わった。アメリカ軍はスペイン艦隊を壊滅させ、90日間でキューバとフィリピンを占領した。1898年のパリ協定の結果、スペインの植民地であったプエルトリコ、グアム、フィリピンはアメリカ合衆国に併合され、キューバはアメリカの占領下に置かれた。米比戦争そのものに対する支持は広範囲に及んだが、民主党とアメリカ反帝国主義連盟は共和制の価値が失われることを恐れて、激しくフィリピンの併合に反対した。マッキンリーはまた、1898年にハワイ共和国を併合、同国の全ての居住者がアメリカ国民となった。マッキンリーは1900年の大統領選で再びウィリアム・ジェニングス・ブライアンと争った。ブライアンは外交政策と繁栄の復帰に焦点を合わせた激しい選挙戦を展開したが、マッキンリーは再選を成し遂げた。

 マッキンリーは夫人と共にバッファローで開催されていたパン・アメリカン博覧会に出席した。彼は1901年9月5日、関税に対する姿勢と対外貿易に関しての演説を行った。翌朝にはナイアガラの滝を訪問し、その後博覧会に戻った。その日の午後、マッキンリーはテンプル・オブ・ミュージックでの歓迎会に出席する予定であった。無政府主義者のレオン・フランク・チョルゴッシュは右手に持っていた拳銃を隠すために手に白いハンカチを巻きつけ、人々の列に並んで待っていた。チョルゴッシュは午後4時7分に大統領に向けて拳銃を二度発射した。最初の弾丸は大統領の肩をかすめたが、二発目は、胃、膵臓および腎臓を通り、最終的に背中の筋肉に入りこんだ。チョルゴッシュは再び発砲しようとしたが、大統領の護衛によって殴られ、続いて激怒した群衆によって制圧された。

 一発目の弾丸は容易に発見されたが、医師は二発目の弾丸を発見することができなかった。弾丸を探すことでより多くの害を及ぼすことが考えられた。さらに、マッキンリーの容体が回復しているように見えたため、医師は弾丸を体内に残すことを決定した。

 博覧会には新たに開発されたX線検査機が展示されていたが、医師はそれを使用することでどのような副作用が生じるかを分からなかったため、体内の弾丸を捜索するのに使用されることはなかった。博覧会の多くの建造物は凝った作りで何千個もの電球を用いて飾り付けられていたが、博覧会の救急病院の手術室には電灯の照明は一つもなかった。大統領を眠らせるために可燃性のエーテルを使用したため、ろうそくの炎を使用することができず、医師は傷の治療の間、手術台に日光を反射するために鍋を使用した。

 マッキンリーの担当医師は彼が回復すると信じていた。そして彼はバッファローにある博覧会会長の自宅で一週間以上静養した。9月12日の朝、彼は事件以来初めて食事をとった。しかしながらその日の午後に容体が悪化し、急速に衰弱し始めた。マッキンリーはショック状態に陥り、1901年9月14日午前2時15分、銃撃の8日後に傷の周りの壊疽のため死去した。臨終の言葉は「それは神の思し召しだ」であった。マッキンリーはオハイオ州カントンのウェストローン墓地に埋葬されたが、その後カントンのマッキンリー・メモリアルに再埋葬された。

 チョルゴッシュは、大統領が死んでからわずか9日後の9月23日に裁判に掛けられ、殺人について有罪となり1901年10月29日にオーバーン州立刑務所で電気椅子によって処刑された。

 1901年9月14日死去(享年58)