アドマイヤラクティ

アドマイヤラクティ(2008年2月20日生)
 [競走馬]



 2009年のセレクトセールで3200万で落札されたアドマイヤラクティは、2010年11月の京都の新馬戦でデビュー。デビュー戦は2着だったが、2戦目で初勝利を挙げた。年が明けて3歳になったアドマイヤラクティは500万下条件を1戦した後、皐月賞出走を狙って、皐月賞トライアルの若葉ステークスに出走した。しかし、5着に敗れて皐月賞の優先出走権を獲得することができず、その後休養に入ったため、春のクラシックには出走できなかった。5ヶ月の休養後、復帰戦の500万下条件戦は勝ち上がったものの、北野特別2着、ドンカスターカップ3着、境港特別3着と1000万下条件戦で勝ち切れないレースが続いた。

 2012年、古馬になったアドマイヤラクティは3月の中山で1000万下の館山特別、準オープンの湾岸ステークスと連勝した。連勝後に1戦してから4ヶ月間休養したアドマイヤラクティは10月に復帰、京都で行われた準オープンの古都ステークスを快勝し、遂にオープン入りした。オープン馬になったアドマイヤラクティはオープン特別のアンドロメダステークス3着を経て、金鯱賞に出走。重賞初挑戦だったが、僅差の3着と善戦した。

 2013年、アドマイヤラクティの初戦はアメリカジョッキークラブカップ。このレースでは3着に終わったが、続くダイヤモンドステークスで見事1番人気に応えて快勝、重賞を初制覇した。重賞初制覇したアドマイヤラクティは天皇賞(春)に出走、4着と健闘した。ところが1番人気に推された目黒記念では10着と大敗を喫し、秋まで休養することになった。秋は京都大賞典4着、アルゼンチン共和国杯2着を経てジャパンカップに出走、4着と健闘した。しかし、続く有馬記念は3番人気に推されたが11着と惨敗してしまった。

 2014年、6歳となったアドマイヤラクティは初戦の阪神大賞典を2着と好走し、余勢をかって天皇賞(春)に出走したが、13着に敗れてしまった。その後、陣営は秋に豪州遠征を敢行することを発表。8月下旬に休養から栗東トレセンに戻ってきたアドマイヤラクティは9月19日に成田空港から豪州へ向けて出発した。10月18日、豪州遠征の初戦となったコーフィールドカップでは、58kgとトップハンデを背負って出走した。レースでは向正面で中団までポジションを押し上げ、3コーナー過ぎから徐々に進出を開始。4コーナーで大外を回ると、直線では外から一気に追い込み快勝した。これがアドマイヤラクティにとって、GI初制覇となった。

 11月4日、アドマイヤラクティはGI連覇を狙うべく、メルボルンカップに出走した。前走のコーフィールドカップの勝利が評価されて、1番人気に支持されたが、斤量は58.5kgと前走同様トップハンデを背負わされた。レースでは第3コーナーまで2番手をキープしていたが、第4コーナーでずるずる後退し、最下位の22着に敗れた。レース後、滞在厩舎に戻ったアドマイヤラクティは体調に異変が生じて馬房内で倒れ、死亡した。当初、アドマイヤラクティの死因は不明とされていたが、メルボルン大学付属動物病院の獣医ブライアン・スチュワート博士が検死した結果、死因は心臓麻痺だったことが明らかになった。

 詳細な病理解剖が行われた後、アドマイヤラクティはオーナーの近藤利一の意向により火葬され、遺灰は豪州の功労馬繋養施設であるリビングレジェンズ内にある霊園に埋葬された。

 なお、海外のレースで客死した日本馬は1997年のドバイワールドカップでレース中に転倒して骨折し死亡したホクトベガに次いで、アドマイヤラクティが2頭目になる。

 2014年11月4日死去(享年6)