リチャード・ローブ

リチャード・アルバート・ローブ(Richard Albert Loeb 1905年6月11日生)
 [アメリカ・誘拐殺人犯]



 裕福なユダヤ人の家庭に生まれた。シカゴ大学の学生だったローブは同性愛関係にあったネイサン・レオポルドと完全犯罪を遂行することで自分たちの優越性を立証しようという動機で誘拐事件を計画した。ローブとレオポルドは共にニーチェの超人思想の信奉者でどちらも非常に知能指数が高く、逮捕される恐れを一切感じることなく完全犯罪を成し遂げる力があると信じていた。

 2人が計画を実行に移したのは1924年5月21日のことだった。ローブの隣人の遠縁にあたる富裕なユダヤ人実業家の息子ボビー・フランクス(16歳)をレンタカーに誘い込んだのである。フランクスは二人に鑿で殴打された後衣類を口に詰められ、まもなく絶命した。シカゴ郊外の線路の下にある排水路に死体(身元特定が困難になるよう顔と性器を酸で焼いてあった)を隠した後、身代金目的の誘拐だったように見せかけるため入念に工作した。フランクス家は裕福なので、1万ドルも要求しておけばもっともらしく見えるだろうと計算したのである。しかし、フランクスの父が身代金を払えるようになる前に、フランクスの死体が発見された。警察は、これが単なる身代金目的の誘拐ではないことを直ちに察知した。もしそうであったら、フランクスを殺す理由はなかったからである。

 そして、死体と共に発見された片眼鏡が、レオポルドにたどり着く手がかりとなった。身代金を要求する手紙はタイプライターで打ってあったが、調べると、それはレオポルドが法学部のゼミで共用しているタイプライターと同一であることが判明した。警察が取調べを重ねるうちに2人のアリバイは崩れ、ついに2人とも自供した。事件の大部分について供述は任意になされたものではあったが、殺害の実行については2人とも相手に罪をなすりつけ合った。彼らは熟慮を重ねた末、身代金を要求することが却って完全犯罪の成功に繋がると踏んでいた。しかし、身代金を要求する前に死体が発見されてしまったのは完全な計算違いだった。2人の実家は裕福であり、充分な小遣いを与えており、身代金が動機である訳はなかった。彼らはただスリルが欲しかったのだ。もっとも2人は拘置中も終始スリルを感じ続け、新聞記者相手に犯行の様子を生々しく語っていた。

 新聞記事が世に出ると、世論は怒りに煮えくり返った。ユダヤ人社会は、2人のような家庭から、かくもおぞましい犯罪者が出るとは夢にも想像していなかった。2人は一流大学の颯爽たる学生で、前途には洋々たる未来がひらけており、犯罪に走る理由は何もなかった筈なのである。

 この事件の公判はメディアの報道でごった返した。「世紀の犯罪」という陳腐な謳い文句が初めて使われたのはこの時である。ローブの家族が雇った67歳の名弁護士クラレンス・ダロウは、死刑判決だけは出させまいと何年も奮闘した。精神異常を理由に無罪を主張するかと誰もが思ったが、2人とも罪を認めた上での弁護だったので世論は驚いた。陪審裁判だったら間違いなく死刑判決が出てしまうことを見越したため、有罪を認めることによって陪審裁判になることを回避し、たった一人の判事の前で弁護したのはダロウ一流の戦略だった。ダロウは12時間にも及ぶ弁論をおこなった。なぜなら彼は断固たる死刑反対論者であり、このセンセーショナルな事件の弁護をすれば、彼の死刑反対論を繰り返し新聞に載せて広めることができたからである。そして、これほど兇悪な犯罪者ですら死刑にならないのだということを立証すれば、他の平凡な犯罪者を死刑にすることも難しくなるという計算もあったに違いない。結局ダロウの弁護は成功し、2人は死刑判決を免れた。こうして2人は、殺人罪に対して終身刑、誘拐罪に対して99年の懲役刑を受けたのである。

 イリノイ州のジョリエット刑務所でローブとレオポルドの2人は、自らの受けた高等教育を活かして刑務所内の学校で教師となった。だが1936年1月28日にローブが、服役者仲間のジェイムズ・デイにシャワー室で襲れて剃刀で切り殺された(デイは後にローブにレイプされそうになったと証言し、正当防衛が認められている)。一方レオポルドは、1958年に33年間の服役を経て仮釈放が認められて出所。マスコミの取材攻勢を避けるためにプエルトリコへ移住し、そこで花屋の未亡人と結婚。1971年に心臓発作で66歳で死亡した。

 1936年1月28日死去(享年30)