山上伊太郎

山上伊太郎(やまがみいたろう 1903年8月26日生)
 [脚本家/映画監督]



 京都の花街に生まれるが、滋賀県大津市の父のもとに引き取られ、旧制小学校を卒業後、県庁に給仕として勤めた。1923年12月、20歳のときに東亜キネマ設立と同時に脚本部研究生として等持院撮影所に入社する。2年以上が経過した1926年、仁科熊彦監督の『帰って来た英雄 前篇・後篇』の脚本でデビュー、同作は3月11日、18日に公開された。牧野省三の東亜キネマから「マキノ・プロダクション」への独立に際し、当時牧野の支援を受け「連合映画芸術家協会」を設立した小説家の直木三十五に才能が認められ、マキノの俳優でのちにプロデューサーとなる玉木潤一郎にスカウトされ、マキノに移籍した。移籍第1作の『闇乃森』は、山上の原作をもとに牧野自身が脚色、橋本佐一呂が監督し、東亜でのデビュー作公開のわずか1週後の3月26日に公開された。山上がオリジナル脚本を書き、牧野の子息マキノ雅弘(正博)が監督、三木稔が撮影した1927年の『浪人街』、1928年の『首の座』は、どちらも当時の『キネマ旬報』誌のベストワンとなった。山上の黄金時代であり、マキノ・プロダクションのそれであった。

 1929年7月25日に牧野が死去、同社は混乱の様相を呈する。映画監督を目指し、1932年、山上は片岡千恵蔵プロダクションに転じ、やがて1934年に嵐寛寿郎プロダクションで、嵐寛寿郎主演の『兵学往来髭大名』で監督としてデビュー、同作は同年6月14日に新興キネマの配給で公開されたが、批評・興行ともに惨憺たるものであった。山上は31歳であった。

 その後は日活京都撮影所で脚本を書いていたが、1942年の戦時下による大映への統合の際に、「人員整理」の対象となり職を失う。翌1943年、志願して報道班に加わり、フィリピンへと赴任した。1945年6月16日(推定)、フィリピン・ルソン島北部山岳地帯のイフガオ州キャンガン付近で行方不明となり、のちに戦死広報とともに空の骨箱が遺された家族のもとに届けられた。死因は「餓死した」、「銃弾に斃れた」、「自殺」など、様々にその最期が伝えられた。

 1945年6月16日死去(享年41)