高橋七重

高橋七重(たかはしななえ 1941年11月3日生)
 [歌手]



 東京生まれ。両親の顔を知らず、大阪・北新地の芸者置屋にもらわれ、養母と養祖母に育てられた。中学卒業と同時に家を飛び出して、割烹料理店や喫茶店などを転々とし、歌手を志すようになった。1961年、19歳のとき、「第12回日本コロムビア全国歌謡コンクール」で優勝。このときの2位は林田民子(水前寺清子)であった。同年11月、日本コロムビアに入社。翌1962年4月、『港の南京豆売り』で水前寺より2年早くデビュー。美人歌手として将来を嘱望された。

 しかし、彼女をいち早く有名にしたのは歌手としてではなかった。デビュー早々、広島の巡業先で、当時関脇だった元横綱栃ノ海と結ばれ、以来3年間の同棲生活を経て、1965年5月に正式結婚。晴れて横綱夫人となり、「金星をあげたコロムビア歌手」として注目を浴びた。しかし、相撲界の古い因習や複雑な人間関係に疲れ、結婚生活は長く続かず、1967年9月に離婚。翌1968年11月、心機一転「七重八重子」の名でクラウンレコードから『夜の未亡人』をリリースするが、あまりヒットしなかった。

 1970年9月9日早朝、知人に「死ぬことにした。彼によろしく」と自殺をほのめかす電話をしたため、知人が110番通報した。知らせを受けた警察が彼女の自宅アパートに駆けつけたところ、ガス栓が開け放され室内にガスが充満、ベッドの上で仰向けに倒れて意識を失っているのを発見した。ベッドの脇に男性用下着が積まれ、その上に1枚の名刺とメモがおいてあったという。メモには「下着を名刺の主に渡してください」という遺書めいた走り書きがしてあった。彼女は近くの病院に運びこまれたが、意識はほどなく戻り、幸い一命は取り留めた。

 自殺を図った原因は妻子ある男性との愛のもつれであった。半年間の不倫関係の後、別れを切り出されて深く絶望した彼女は、酒をあおってガス栓を開いたという。

 退院後、自宅アパートの部屋で起きた哀れなエピソードがある。彼女が記者の質問に答えていたとき、棚の上から、なにかポトンと落ちた。小さな袋から異様な笑い声がなり響いたという。それは、おもちゃの笑い袋だった。とたんに彼女の顔が悲しげにゆがみ、「とめてっ!早くとめてっ!自分が笑われているようで耐えられないの」と言って取り乱したという。彼との幸せな日々に笑い響いたであろうこの小さな袋が、皮肉にも傷ついた彼女の心をあざけるように響いたのであった。