アーランド・ウィリアムス

アーランド・ディーン・ウィリアムス(Arland Dean Williams Jr. 1935年9月23日生)
 [銀行監査官]



 1982年1月13日16時1分ごろ、ワシントン・ナショナル空港を激しい吹雪のなか離陸したエア・フロリダ90便が、離陸直後に氷結したポトマック川に架かる橋梁に激突・墜落した。乗員乗客79人の内74人、橋梁上の自動車の中にいた4人の合わせて78人が死亡した。客室乗務員1人と乗客4人が救助された。

 1982年1月13日、この日のワシントンD.C.は、その冬で一番の猛烈な寒波に見舞われていた。ワシントン・ナショナル空港では、フロリダのタンバに向かう「エア・フロリダ90便」が機体の除雪作業を終え、出発予定時刻から遅れること1時間40分。16時ちょうどに90便は離陸した。悲劇はそのわずか1分後に起こる。

 離陸直後、左右の翼が大きく揺れたかと思うと機体はそのまま失速。エア・フロリダ90便は、高度が上がらないままポトマック川橋梁をかすめて渋滞中の自動車数台を巻き込んだ末、氷の張った川面に墜落した。墜落直前、機長は「飛んでくれ、500フィートでいいんだ・・・機体がほとんど上がらない・・・我々は失速している!」と叫び、副操縦士が「落下しているぞ!」と言ったのに対して「I know it!(分かっている!)」と答えた。直後に響いた、橋に衝突した衝撃音がボイスレコーダーの最後の記録となった。

 事故の衝撃があまりにもひどかったため生存者がいないと思われていたが、割れた氷の上に6名の生存者がしがみ付いていた。その中の一人が、銀行監察官のアーランド・ウィリアムスだった。

 一般的に人間が0度の水温に耐えられる限界は20~30分とされている。しかし現場は同時刻に偶然発生した交通事故により緊急車両が近づけないほどの交通渋滞が発生していたため、通常であれば4分で到着するはずのレスキュー隊が、実際は現場到着に11分もかかってしまった。さらに、6人が取り残されている場所は岸から30メートルと遠く、何度ロープを投げてもそれは空しい放物線を描くだけだった。厚く覆われた氷のために救助ボートもまったく役に立たず、現場にたどり着いたレスキュー隊は、凍てついた川面に浮かぶ6人に励ましの声をかけるしかなす術がなかった。

 事故から20分後の16時21分に国立公園管理警察のヘリコプターが駆けつけた。しかし、救助用のヘリではないため救命器具は一切装備しておらず、ロープを吊り下げ、一人ずつ岸まで運ぶ他に手立てはなかった。

 ヘリの隊員はまず一番衰弱が激しかった男性会社員の救出から開始した。その男性を無事岸まで運ぶと、隊員は次に衰弱の激しかったアーランドに向かってロープを降ろす。ところがアーランドはロープを傍らの客室乗務員に手渡し、救出の順番を譲ったのである。

 客室乗務員を助け出し現場に戻ったヘリは、再びアーランドの目の前にロープを降ろすが、彼はまたしてもロープを別の会社役員の男性に渡してしまう。その様子をヘリから見ていた隊員は、予備のロープを再度アーランドに向かって放り投げた。しかし彼はそのロープを引き寄せると、今度は別の女性に渡してしまう。

 こうしたことが幾度となく続き、墜落現場にはとうとうアーランド一人が取り残されてしまった。生き残った6人のうち5人を救出したヘリは、最後の生存者アーランドのもとに向かったが戻ってきた時には、既に力尽き水面下に沈み二度と姿を見せなかった。

 当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンは、アーランドの英雄的行為を賞賛する演説を行い、人命救助を讃える自由勲章を授与した。その後、彼の偉業をたたえ事故現場となった橋が『Arland D. Williams Jr. Memorial Bridge』と改名された。また、他にも彼を記念して命名された施設がいくつかあり、彼の郷里のイリノイ州には2003年に彼の名が付いた小学校が新設されたという。

 1982年1月13日死去(享年46)