竹沢弥七(10代目)

10代目竹澤彌七(たけざわやしち 本名:井上一雄 1910年9月12日生)
 [三味線奏者]



 京都生まれ。1917年九代目に入門、翌年竹澤一雄を名乗って京都竹豊座で初舞台を踏み、1919年には三代目竹澤團二郞を襲名した。その後六代目竹澤團六の門下になり文楽座入り。1936年には八代目竹本綱大夫らと新義座の結成に参加するが、2年後綱大夫と共に文楽座に復帰して七代目竹澤團六を襲名。1947年に十代目を襲名した。1959年には新橋演舞場で八代目松本幸四郎らと歌舞伎と文楽の提携による『日向島』を試演。八代目綱大夫との相三味線は以後綱大夫が死去する1969年まで続いた。

 1971年紫綬褒章。1972年人間国宝に認定。1975年に毎日演劇賞と文化庁芸術祭賞、翌年には日本芸術院賞を受賞したが、同年10月に失踪を遂げ、30日に京都市伏見区の丹下ダムで遺体が発見された。検視の結果24日頃に賀茂川疎水に入水自殺したものと断定された。山川静夫原作・鶴澤清治節付による創作浄瑠璃『弥七の死』は、この十代目が長年の相三味線だった八代目綱大夫を失ってから自殺に至るまでの晩年の苦悩を描いている。

 1976年10月24日死去(享年66)