丹波慎也

丹波慎也(たんばしんや 1978年生)
 [高校球児]



 将来を期待された投手であったが在学中に急逝。タレント上地雄輔とは1年先輩でバッテリーを組む。松坂大輔の2年先輩。ヤクルトスワローズの松井光介投手とは横浜高校同期である。

 1994年に横浜高校に入学。同年の第76回全国高等学校野球選手権大会に、1年生ながら投手の控えとしてベンチ入りを果たすが、初戦で敗れ、出番はなかった。

 翌1995年は春先にフォームを崩してスランプになり、登板機会が少なかった。結局、この年は春夏も甲子園出場は叶わなかった。

 夏の神奈川予選敗退後、エースで4番の丹波を中心とする新チームを結成、翌年の甲子園を目指しての猛練習が始まった。丹波は秋の大会までのオープン戦や遠征試合では調子を取り戻し、投げては2度の無安打無得点と大活躍。2年生ながらドラフト上位指名候補とも言われ、早くも将来を期待された。

 その直後の1995年8月16日、遠征試合が終わり、チームメイトと食事をとった後、いつもと変わりなく家に帰り就寝。ところが、彼は就寝したまま、二度と目を覚ますことはなかった。死因は、心臓肥大による急性心不全。今まで体調の異変は一度もなく、それだけに周りにいた人たちは、この出来事が信じられなかった。

 当時の横浜高校ナインを初め、渡辺監督達も悲しみに暮れたが、この悲劇をきっかけに松井が急遽横浜高校のエースの座を引き継ぎ、背番号1を欠番にして、丹波のために甲子園に行くことを誓って秋の大会に挑んだ。

 その横浜高校は、翌1996年に念願の甲子園春夏連続出場を見事に果たした。春の第68回選抜高等学校野球大会では1回戦で敗れたが、夏の第78回全国高等学校野球選手権大会は初戦を勝利で飾った。しかし、次の試合では勝利を目前に逆転で敗れてしまった。奇しくも敗れたその日は前年亡くなった丹波の命日であった。

 兄の丹波幹雄は、横浜高校卒業後は、一度野球からは離れていたが、その後弟の遺志を継ぐべく、翌1996年から社会人野球クラブチームに入って野球を再開。1998年のドラフト会議でヤクルトスワローズに8位指名され、見事プロ野球選手となり『タッチ』実写版だとも言われた。

 1995年8月17日死去(享年17)