桂枝雀(2代目)

2代目桂枝雀(かつらしじゃく 本名:前田達 1939年8月13日生)
 [落語家]



 1939年、兵庫県にブリキ工を営む父の長男として前田達は生まれた。中学卒業後、元来進学を希望していたが、父が亡くなるなどで家族の生計が苦しく、やむを得ず夜間の伊丹市立伊丹高等学校の定時制に進学。日中は三菱電機伊丹製作所で養成工として働いたり、兵庫県立伊丹高等学校で給仕の仕事をしたりと家族を支えた。この頃弟とラジオ番組「漫才教室」にリスナーとして参加している。「伊丹の前田兄弟」は素人お笑いトーナメント荒らしとして知られ、賞金を得ては生計の足しにしていた(同番組の審査員の中には、後の師匠となる桂米朝も含まれていた)。そんな多忙な中でも勉強は怠らず、高校へは首席合格。そのため入学式では入学生代表の挨拶を務めた。特に高校生の頃から英語の学力はかなりのものであり、専門書を読めるほどで、後の英語落語にも繋がる。

 1960年に神戸大学文学部に入学するが、1年間通った後1961年に「大学がどんなとこか大体分かりました」とあっさりやめた。3代目桂米朝に入門し落語の道を志す。「10代目桂小米」と命名された。兄弟子に3代目桂米紫、月亭可朝がいるが、内弟子としては米朝の一番弟子である。1962年4月に千日劇場で初舞台。小米時代は内容の設定を深く掘り下げ、大阪では珍しい繊細で鋭角的なインテリ的な落語だったという。声が小さい場面もあり、米朝から「後ろの人は聞こえんぞ」とたしなめられることもあった。客層はいつも笑う人といつも笑わない人に分かれたらしい。間もなく、女性浪曲漫才トリオ『ジョウサンズ』でアコーディオンを弾いていた日吉川良子と出会い、「あんたみたいな天涯孤独な人探してたんや」と結婚を申し込む。夫人によれば、落語やこれまで喋っていたときの大らかで陽気な性格とは違い、家ではひどく陰気で、世間話もしない、テレビも見なかったので驚いたという。

 結婚して間もなく長男が生まれた。また、落語だけに専念したいと言うことから、それまで行っていた他の芸能仕事もやめ、家でひたすらネタ繰りに没頭するようになっていた。1973年のある日、夫人がいつものように小米をタクシーから降りて見送ろうとすると、「演芸場に行くのが怖い」と言って、その場にしゃがみこんでしまったという。夫人は「えらいことが起きました」と米朝に連絡し、病院に連れていったところ、重いうつ病と診断された。家庭ができて将来に対して過度なプレッシャーを感じ、また自分の芸に対しても極限まで思いつめるところがあったという。「死んだら人はどうなるんや」「死ぬのが怖い」「わしは(今流行の)ビニールの病気や」などと、全ての事が悪い方にいくように思えて仕方なく、食事も摂らず、風呂も入らず、顔は青ざめ、家に篭りっきりになってしまった。夫人には「自分は幸せにしてやれないから別れてくれ」と泣いて頼み込むこともあったという。いくつかの病院を回ったが、処方箋を出されるばかりで快方に向かわなかった。最後にいった病院で「今必要なのは休息です。薬はいりません。自分が不安に思っていること全て話してください。そしてまた不安になったらいつでも来てください」と言われ、胸がすーっとなったという。3ヶ月間のブランクを経て、小米は高座に復活した。そして、それまでは私生活で陰気に過ごしていた時も、常に陽気で明るくいることを決意した。「ずっと笑いの仮面をかぶり続ければ、いつかその仮面が自分の顔になる」という気持ちからだった。

 1973年10月に大阪道頓堀の角座で「2代目桂枝雀」を襲名。これを機にそれまでの落語を大きく変える。高座では笑顔を絶やさず、時にはオーバーアクションを用い、それまでの落語スタイルの概念を大きく飛躍させ、どんな客も大爆笑させる落語であった。客の受けは非常によく、枝雀の評判はどんどん上がっていき、米朝と時期を分けて独演会を行うようになっていった。顔がチャーリー・ブラウンに似ているなど愛嬌のある顔立ちからテレビを通してお茶の間に親しまれ、「すびばせんねぇ(すみませんねぇ)」などのフレーズで人気を博した。1983年芸術選奨新人賞受賞。1984年3月28日、東京歌舞伎座にて「第一回桂枝雀独演会」を開催し、会場では大入袋が出た。またこの頃、英語落語を始めるようになり1987年6月にはハワイ、ロサンゼルス、バンクーバーにて初の英語による落語公演を行った。演目はロボットしずかちゃん。枝雀の出演する寄席はいつも満員で、関西の噺家で独演会を行いいつでも客を大入りにできるのは桂米朝と枝雀だけといわれた。また、映画「ドグラ・マグラ」やTVドラマ「ふたりっ子」に役者として出演し、俳優としてもその演技力をみせた。だが、メインは落語であり、それ以外のバラエティやTVの仕事を多くするようなことは最後まで無かった。1994年12月27日にはNHKで「山のあなたの空とおく」という枝雀を特集する番組が全国放送された。

 晩年には古典ネタをさらに練り上げ、どこまでも完成度を高めようとしたが本人は納得いかず、また糖尿病や高血圧などの持病もあってか、1997年頃にうつ病を再発。高座のマクラで「私、またうつ病になってしまったんです」と話したり、「色んなことを試みてるうちに、自分の落語が分からなくなってきた」と泣いたりすることもあったという。客は冗談だと思って笑うと、本人は涙を流しながら否定、それが客のさらなる笑いを誘う、という悪循環に陥った。1973年以降も、時々うつ病の薬を飲んだりしていたそうだが、この時は以前のうつ病より重いものだったという。同年には何度か高座を行っており、米朝も「最近の枝雀は無駄がなくなって、前よりいいよ」と話していたが、枝雀本人は納得がいかず悩んでいたという。

 一旦は回復しかかったものの、1999年3月13日に自宅で首吊り自殺を図っているところを発見され、病院に搬送された。このとき枝雀の体を降ろしたのは桂雀々であった。しかし、意識が回復する事なく同年4月19日に心不全のため死去。復帰後に20日連続公演の独演会を企画しており自らを追い込んでいたであろうことや、回復期に自殺する確率が最も高くなるなど、うつ病患者特有の症例や傾向に当てはまる状況にはあったものの、遺書やそれらしい発言は全く無く真の動機は謎である。枝雀の突然すぎる死に対し、師匠の米朝や弟子の南光らが悲しみ、マスコミも大きく取り上げた。

 生前、自身のうつ病を本人は「死ぬのが怖い病」と呼んでいたという。自殺の際、遺書は無かったが、枝雀が一枚残していた紙切れには、自身が復帰後に予定していた、60のネタを一日3つずつ、20日連続で行う前代未聞の独演会のためのネタ順が書かれていたと言う。

 1999年4月19日死去(享年59)