森本薫

森本薫(もりもとかおる 1912年6月4日生)
 [劇作家/演出家]



 大阪府生まれ。中津第二尋常小学校、旧制北野中学校を経て第三高等学校文科へと進んだ。三高在学中は、ノエル・カワードやサマセット・モームなどのヨーロッパ近代戯曲を読みふけて過ごし、1932年には処女作となる一幕ものの戯曲『ダムにて』を発表している。三高卒業後、京都帝国大学文学部英文科に進んだ森本は、入学から時を経ずして胸部疾患のために療養生活を余儀なくされた。大学在学中は京都にあった劇団エラン・ヴィタールに参加し、作家や演出家として、当時はまた、俳優としても活動したという。

 森本が田宮虎彦らと創刊した同人誌「部屋」に執筆した『一家風』が、1934年に小山祐士と田中千禾夫の目に入り、雑誌「新思潮」に発表した『わが家』は岩田豊雄の演出により築地座で初演され、森本は劇作家としての地歩を固めた。また、同年執筆の『みごとな女』は岩田の感心を呼びおこし、のちに文学座第1回公演で「試演」と称して上演され、新劇界に新たな鼓動を生んだ。1935年には岸田國士の薫陶を受け、『かどで』、『華々しき一族』を また、翌年には『かくて新年は』、『衣裳』などの機知に富んだ心理描写にすぐれた作品を続けて発表し脚光を浴びた。

 1937年、京都帝大を卒業し、翌1938年には女優の吉川和歌子と結婚して上京した。この頃には新劇用の『退屈な時間』のほか、ラジオドラマの台本や映画シナリオなども手がけ、放送劇においても『薔薇』や『生れた土地』などの佳作を生んでいる。1940年に岩田に推され、文学座に参加する。日本の有事色と言論・表現の統制がますます厳しくなったことや後述の森本自身の健康問題のせいもあり短期間に終わったものの1940年代の文学座の中興に貢献したといえる多くの仕事を残した。文学座ではソーントン・ワイルダー『わが町』の翻訳、岩下俊作原作『富島松五郎伝』、『勤皇届出』、『怒涛』、『女の一生』等で新境地を開いた。

 私生活では妻帯していたが文学座の同僚であった杉村春子との不倫関係が生じ、森本の逝去まで関係が続いたとされる。

 将来を有望視されたが、戦時中に大学時代より発症していた肺結核が再発・進行し、終戦を挟み闘病も病気に勝てず1946年10月6日に京都で早世した。生誕地に近い大阪市北区中津2丁目の中津公園内には、『女の一生』の一節が刻まれた森本薫文学碑が建立されている。

 1946年10月6日死去(享年34)