市川荒太郎(2代目)

二代目市川荒太郎(にだいめいちかわあらたろう 本名:市川保之助 1892年11月23日生)
 [俳優/歌舞伎役者]



 大阪府生まれ。父(養父)は先代の初代荒太郎であった四代目市川荒五郎。幼少のころから芸道を学び、数え年6歳になった1897年、大阪・弁天座での『鈴木主水』に出演し、主演の四代目嵐璃珏の息子磯松役を演じ、「市川保太郎」の名で初舞台を踏む。以降、父・荒太郎に従って弁天座で引き続き修業したが、数え年12歳になる1903年に一度、引退を考える。しかしながら、父・荒太郎が1906年9月に四代目市川荒五郎を襲名、数え年16歳になった1907年9月、弁天座で七代目市川團藏、四代目嵐璃珏、嵐巌笑、四代目片岡我童(のちの十二代目片岡仁左衛門)、六代目嵐吉三郎らの一座において、『妙心寺』の初菊役を務め、このとき、二代目市川荒太郎を襲名した。日本舞踊については、若柳吉左衛門、楳茂登扇性に学んだという。

 1924年2月25日、弟子の林誠之助らとともに松竹キネマに入社、下加茂撮影所に所属する。同撮影所はヘンリー小谷も同時期に招き、荒太郎・東愛子夫妻をキャスティングして『黒法師』を製作、同年4月23日に公開したが、単純な活劇と評価され、興行的には振るわなかった。同年7月、松竹蒲田撮影所から所長の野村芳亭らが現れ、下加茂の改革を行った。荒太郎は同年末、同社を退社、弟子の林誠之助は蒲田に異動している。

 松竹退社の1年後にあたる、1925年12月5日、33歳で死去した。

 1925年12月5日死去(享年33)