J Dilla

J Dilla(ジェイディラ 本名:ジェームス・デウィット・ヤンシー 1974年2月7日生)
 [アメリカ・音楽プロデューサー/歌手]



 ミシガン州デトロイト生まれ。幼少時代J Dillaは四人兄弟の二番目として、母は元オペラ歌手、父はジャズベーシストという音楽に恵まれた環境に生まれる。彼は幼い頃から彼の両親から音楽を学ぶと共に様々なレコードを集めており、そのレコードの影響もあって様々な楽器の演奏、そしてラップに情熱を傾けるようになる。高校に入学後、彼は学友のT3、Baatinと、自身はJay Deeとして「Slum Village」を結成すると共にテープデッキでビートの作成を開始。1992年になると、元ファンカデリックのキーボーディストであるアンプ・フィドラーはJay Deeの才能に感動しテープエディットしか知らなかったJay DeeにMPCの使い方を教える。Jay DeeはMPCの使い方を素早くマスターし、1994年にその機材で作ったデモテープがアンプ・フィドラーを介してア・トライブ・コールド・クエストのツアーでデトロイトを訪れていたQティップの手に渡る。1995年になるとJay DeeはMCのファット・キャットと「1st Down」を結成、デトロイトで初めてメジャーレーベル(Paydayレコーズ)と契約したヒップホップグループとなった(ただし、Paydayレコーズの倒産によってたった一枚のシングルを発表したのみ)。同年、ザ・ファーサイドの2ndアルバム『Labcabincalifornia』の『Runnin'』『Drop』を含む6曲の制作とシングルでのリミックスを手がける。本来Qティップが手がけるはずであったが、Qティップは多忙のためにデモテープで気に入っていたJay Deeに制作を委託。1996年にこのアルバムからのセカンドカット『Runnin'』が大ヒットし、またスパイク・ジョーンズが監督したB面曲『Drop』のPVがその奇抜な映像で反響を呼び、Jay Deeは一躍新人プロデューサーとしてデトロイトのみならずアメリカ全土に広く知れ渡る事になった。また同年にはデ・ラ・ソウル、バスタ・ライムスやア・トライブ・コールド・クエスト等のシングルやそのリミックスを手がけ、特にア・トライブ・コールド・クエストとはメンバーであるQティップ、アリ・シャヒードでプロダクションチーム「The Ummah」を結成。The Ummahはア・トライブ・コールド・クエストの4thおよび5th、Qティップのソロアルバムやジャネット・ジャクソン等、様々な大物のアーティストを手がける一方、インディーレーベルからスラム・ヴィレッジの1stアルバム『Fantastic Vol.1』のリリース等、Jay DeeはHip HopのみならずR&Bとしても最も有名なプロデューサーの1人になった。

 2000年代に入るとスラム・ヴィレッジは『Fantastic Vol.2』でメジャーデビューすると共に、新しいプロダクションチーム「The Soulquarians」を結成し、The SoulqueriansとしてもJay Deeとしても数え切れないほどの量のアーティストを手がけヒットを飛ばした。彼のソロ・アーティストとしてのデビューは2001年のシングル『Fuck The Police』である。1stアルバム『Welcome 2 Detroit』はイギリスのインディーレーベルBBEからBeat Generationシリーズとして発表された。同年彼は自身の芸名をJay DeeからJ Dillaへと改名し、ソロキャリアを追うためにスラム・ヴィレッジから脱退。2002年、メジャーレーベルMCAでソロとして契約すると、フランク・ン・ダンクのアルバム『48HRS』全体を手がけるがリリースされず、MCAから商業的な曲を作るように要求され、再度録り直しをするも結局お蔵入りしてしまった。この事に彼は落胆を表明していた。ちなみに同作は、10年後の2013年にDelicious Vinulレーベルから『48 Hours』のタイトルで発売されている。


 彼はラッパーとしてよりはプロデューサーとして知られていたが、MCAからリリースする筈であったアルバムでラップに徹し、プロダクションは彼が認めるアーティストであったマッドリブ、ピート・ロック、Hi-Tek、Supa Dave West、カニエ・ウエスト、NottzやWaajeed達に製作を依頼した。しかし、このアルバムの音源自体は完成していたものの、2003年にMCAがゲフィン・レコードに吸収された事を受け結局リリースされないままお蔵入りとなってしまった。ちなみに同作は、2016年に『ザ・ダイアリー』としてリリースされた。

 ロサンゼルスのプロデューサーでMCであるマッドリブと「Jaylib」としてグループを2002年に組み、2003年に『Champion Sound』を発表。同年、J Dillaは元々弱かった肝臓を痛め体重が激減する等、体の不調によって活動範囲は非常に限定されてしまい、それ故に2004年から2005年にかけてのリリースは多作な彼にしてはゆっくりした物になってしまった。しかしリリースでなく彼はビートを作っては自身でインターネットでリークしており、たとえ病床についていようと音楽を作り続けていた。彼は2005年11月にヨーロッパのツアーで非常にやせ細った体に車椅子という痛々しい格好でステージに立ち、この時初めてJ Dillaの病気の深刻さが広く知らしめられた。後に明かされることだが、彼は全身性エリテマトーデス(全身の臓器に原因不明の炎症を引き起こす病気)を引き起こす可能性のある希な血液病、血栓性血小板減少性紫斑病に悩まされていたのであった。そして2006年2月10日、彼はその短くも輝かしい人生に幕を閉じた。彼の母いわく死因は心臓停止であったそうである。3日前に自宅で32歳の誕生日を迎え、生前最後のアルバム『Donuts』をリリースした矢先の出来事であった。しかし、Donutsに次いでオリジナルアルバムである『The Shining』及び『Jay Love Japan』のリリースだけでなく、彼の死後に出た多くのアーティストの新譜にJ Dillaの名前がクレジットされている事や、未発表音源集や廃盤になっていた音源が続々と発表/再発されるなどしてJ Dillaの音源は世に出続けており、彼の名前は今でもレコードショップの新譜コーナーで見る事ができる。その内容や生前の活躍に対して様々なアーティストが哀悼の意やトリビューソングが発表されている。また、メディア/レコードショップ等でネクストJay Deeという形でJ Dillaに強く影響を受けた新人の作品がフックアップされている事も多い。

 2006年2月10日死去(享年32)