ヒューイ・ロング

ヒューイ・ピアース・ロング・ジュニア(Huey Pierce Long Jr. 1893年8月30日生)
 [アメリカ・政治家]



 ルイジアナ州ウィン・パリッシュ生まれ。高校を出た後、旅回りのセールスマンとなり稼いだ金でオクラホマ・バプティスト大学に入り法律を学んだ。弁護士となったが政治に関心を持ち大企業攻撃で民衆の人気を得た。1924年にルイジアナ州知事選挙に立候補したが経験不足のために落選。その後の4年間を精力的に遊説してまわり巧みな演説で人々の心を掴み1928年に最年少で当選。その在任期間中、ハイウェイ、アスファルトまたは砂利の道路、十一の新しい橋を建設することにより失業者救済を行なったが、そのために州の赤字が十倍となりまた多くの金が収賄や不正、リベートに消えた。議員を買収して州議会を牛耳り、司法や教員にも影響力をふるった。1929年にはスタンダード石油に重税を課そうとしたためにこれに憤慨した下院によって知事弾劾案が提出されたが買収と脅しで無効にした。

 1932年からは手下のオスカー・K・アレンを州知事にさせ影から州を支配し、自らは国政を目指して上院議員に当選。フランクリン・ルーズベルトを支持したが、充分な感謝を示されなかったためすぐに袂を分かち、自らが大統領になることを計画した。1934年には「誰もが王様」というスローガンの下に、世界恐慌のために引き起こされた犯罪と貧困を抑制するために、「富の共有運動」と呼ばれる所得再分配を評価する運動を作りあげ、支持された。ロングの社会改革は大きな人気を集めたが、独裁の傾向にあることを批判された。

 ロングにはあまりに敵が多くいつも身の回りをボディガードがかためていた。暗殺をいつも警戒していたが彼の最大の政敵で判事であったベンジャミン・ペイリーを排除するため州法を改正したためか、医師でペイリーの女婿であったカール・ワイスにより1935年9月8日、バトンルージュのルイジアナ州会議事堂で銃弾を浴び、2日後の9月10日に死亡した。ワイスもその場で射殺された。ロングの葬儀には十万人に及ぶ支持者がつめかけた。この暗殺には謎が多く陰謀説もある。

 妻のローズ・マコーネル・ロングは夫の死後に上院議員をおよそ1年間務め、息子のラッセル・ロングも同じく上院議員になった。また、実弟のアール・ケンプ・ロングも三度州知事を務めている。ロングの暗殺によりルーズベルトに大統領への道が開かれたが、この暗殺がなければ、アメリカの第二次世界大戦への方針も大きく変わっていたであろうといわれている。

 1935年9月10日死去(享年42)