ラモン・ノヴァロ

ラモン・ノヴァロ(Ramon Novarro 本名:ホセ・ラモン・ギル・サマニエゴス 1899年2月6日生)
 [アメリカ・俳優]



 メキシコのドゥランゴ州ドゥランゴで生まれる。1913年に勃発したメキシコ革命を逃れて、アメリカ合衆国カリフォルニア州のロサンゼルスに一家で移住した。1917年に映画界に入ったが、当時はまだ端役であり、歌手兼ウェイターとして働いて生計を補っていた。ラモンの友人で俳優・映画監督のレックス・イングラムとその妻で女優のアリス・テリーが、ルドルフ・ヴァレンティノのライバルとしてラモンを売り出し、イングラムは「ノヴァロ」と改名するようラモンに示唆した。1923年からさらによい役をもらい始め、同年のイングラムの監督作『スカラムーシュ』での演技は、ラモンの最初の成功となった。

 1925年、ラモンが最高の成功を勝ち取ったフレッド・ニブロ監督の『ベン・ハー』では、衣裳を脱ぐことでセンセーションを起こし、ラモンはハリウッド・エリートへの道を駆け上った。1926年のヴァレンティノの死去により、映画界におけるラテン系俳優のトップレベルに位置するようになったが、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)での同僚、模範的恋人ことジョン・ギルバートよりも下位にランクされた。ラモンは剣戟俳優として知られ、当時の大時代的俳優の一人と考えられていた。1927年、エルンスト・ルビッチ監督の『思ひ出』ではノーマ・シアラーと共演し、1923年、ウィリアム・ナイ監督の『シンガポール』ではジョーン・クロフォードと共演している。

 1929年、シドニー・A・フランクリン監督の『黎明の剣士』が最初のトーキー出演作となった。歌うフランス軍兵士の役であった。1932年、ジョージ・フィッツモーリス監督の『マタ・ハリ』でグレタ・ガルボと共演し、マーナ・ロイと共演した翌1933年のサム・ウッド監督の『カイロの一夜』とは対照的な成功を得た。

 1935年にMGMスタジオとの契約期限が切れたが、同社は契約を更新しなかった。ラモンはリパブリック・ピクチャーズやメキシコの宗教劇、フランスのコメディ映画等に転々と映画出演をつづけた。1940年代後半には、ハリウッドではちいさな役しか与えられることはなかったが、ラモンはテレビ映画への出演が忙しく、1968年にはNBCテレビの『ハイシャパラル』に出演していた。

 ラモンは全盛期(1920年代後半~1930年代前半)には、1本10万ドル以上の出演料を得ていた。彼はその一部を不動産投資に充てており、その収益によって後年も安定した生活を維持することが出来た。ラモンは生涯を通じて、ローマ・カトリック教会への信仰心と自らの同性愛が相反する考えの間でもがき苦しんでいた。MGMの権力者ルイス・B・メイヤーはラモンにラヴェンダーマリッジ(偽装結婚)を強要したが、ラモンは拒絶したとされる。

 1968年10月30日、ハリウッドの自宅で殺されているのが発見された。ラモンは、当時22歳のポールと17歳のトムのファーガソン兄弟に殺害された。ファーガソン兄弟は、ラモンが業者に依頼して雇い、性的目的でローレル・キャニオン大通りの自宅に呼んだものである。殺人事件における検察によれば、ファーガソン兄弟はラモンの邸宅にはそうとうの大金が隠されていると思っていたという。検察は、存在しない隠し金のありかを吐かせるべく、ファーガソン兄弟が数時間にわたってラモンを拷問したと告発している。ファーガソン兄弟は、バスローブのポケットから奪ったわずか20ドルを手に現場から逃走した。伝えられるところでは、ラモンの死因は窒息死で、乱暴に殴り散らされて出血した自らの血液で窒息死、死に至ったという。ファーガソン兄弟は後に逮捕され、長期の懲役の判決を受けたが、早期に仮釈放された。ファーガソン兄弟は、本件と無関係な犯罪でのちに再逮捕され、殺人判決よりも長く懲役を受けることとなった。

 ラモンは、ロサンゼルス市内のカルヴァリー墓地に眠っている。映画産業への貢献を記念して、ハリウッド大通り6350番地のハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに星をもつ。

 1968年10月30日死去(享年69)