村井秀夫

村井秀夫(むらいひでお 1958年12月5日生)
 [オウム真理教幹部]



 大阪府生まれ。子供の頃は内向的でSF少年であり、ただ望遠鏡で星を観察したり、グッピーやミジンコを養殖するのが趣味という親から見て全く手の掛からない少年であった。1977年、大阪大学理学部物理学科入学、同大学院修士課程を卒業後、神戸製鋼に入社したが、会社にも家庭にも生きがいを感じなかった。その頃、麻原彰晃の著書『生死を超える』『超能力秘密の開発法』などを読み、1987年4月、早速オウム大阪支部を訪れる。感銘を受けた村井は翌日に会社に辞表を提出し、オウム神仙の会に入信、「もう迷うことはない。わたしは今、水を得た魚となったのだ。さあ、真理の大海、自由の大海、歓喜の大海へ泳ぎ出よう。」と決意した。

 1985年4月に職場結婚した妻と、1987年6月夫婦で出家する。彼が出家者になるのを両親が思いとどまらせようとしたとき、彼は、リチャード・バックの『かもめのジョナサン』の日本語訳を手渡して、「この本を読んでください。僕の気持ちはこの本の中にあるから」と述べたという。出家後はオウムの科学者の代表格として真理科学研究所を任され、占星術のプログラム、アストラル・テレポーター、ビラ配りロボット、多足歩行ロボット、ホバークラフトなどを企画・開発した。また、教団には医者が多くいたにも関わらず、何故かまったく医療資格を持たない村井が麻原の主治医を務めていた。

 1989年2月10日、麻原の指示により、岡崎一明、早川紀代秀、新実智光らと共に教団を脱退したがっていた信者の殺害に関わる。さらに1989年11月4日には坂本堤弁護士一家殺害事件に関与、坂本の妻と揉み合いになり、指を噛まれつつも首を絞めて殺害した。この時、村井と早川は手袋をしていなかったため、熱した鉄板による指紋消去を命じられた。真っ赤に熱せられた鉄板を前にして早川はためらいがちであったが、村井は「グルのため!真理のため!」と叫んで一気に鉄板に指を押し付けたという。教団内のリンチ事件にも関与しており、1993年発生の薬剤師リンチ殺人事件では殺害決定の会議や遺体隠蔽に参加。男性現役信者リンチ殺人事件ではスパイがいると言い出した張本人で、スパイ疑惑をかけられた被害者をマイクロウェーブ焼却炉で焼き殺すことを提案するが、新実智光が中止したため折角の機会を失ったと残念がった。

 1993年頃から麻原の指示で化学兵器の製造に乗り出す。サリン70トンの大量生産を目指し、サリンプラント計画やサリン噴霧車の製造に取り組んだ。そして1993年冬には2回の池田大作サリン襲撃未遂事件を指揮、ついにサリンを「実戦投入」した。村井にはいわゆるマッドサイエンティスト的な側面があり、想像力は留まるところを知らず、上記の兵器類のほかプラズマ兵器、レーザー兵器「輪宝」、AK-74自動小銃の密造、ついには核兵器の製造までも企画し挑戦。一説には他にもアンモニアプラント、硫酸プラント、硝酸プラント、ニトログリセリンプラント、ニトロセルロースプラント、ニトログリセリンとニトロセルロースからダブルベース火薬をつくるプラント、ダブルベース火薬加工プラント、ダブルベース火薬推進戦闘機、ジェット戦闘機、ヘリコプター、電磁波兵器、高度測定計、半導体工場、ミサイル、ミサイルの誘導装置、フッ素ガスプラント、フッ化水素プラント、ウラン濃縮工場といったものを計画(夢想)していたという。

 1994年6月27日、省庁制が発足し村井は科学技術省大臣となる。科学技術省は翌年の地下鉄サリン事件の実行役となる林泰男、横山真人、広瀬健一、豊田亨らも所属する巨大部署であった。同日、部下と共に製造したサリン噴霧車で松本サリン事件を実行した。1994年8月にオウムの信者がよく被っていたことで有名なPSI(ヘッドギア)の開発により正大師に昇格。教団の最高幹部の地位に上り詰めた。


 1995年2月28日の公証人役場事務長逮捕監禁致死事件には麻原への連絡役として参加。1995年3月18日、公証役場事務長事件による警察の強制捜査の対策を考えるため麻原、幹部らと共に謀議に出席、村井は地下鉄にサリンを撒くことを提案し麻原も同意した。そして地下鉄サリン事件の総指揮をとることとなった。村井は実行役らを第6サティアンに集め「君たちにやってもらいたいことがある。これは(上を見る)……からだからね」と麻原の指示であることを暗示した上で、「近く強制捜査がある。騒ぎを起こして強制捜査の矛先をそらすために地下鉄にサリンをまく。嫌だったら断ってもいいんだよ。」「前にアタッシェケースに仕込んだ噴霧器を地下鉄の構内に置いたことがあった。それからすると、密閉した空間でないと余り効果が出ない。それで、今度は車内に撒く」「3月20日月曜日の通勤時間帯に合わせてやる。対象は、公安警察、検察、裁判所に勤務する者であり、これらの者は霞ケ関駅で降りる。実行役のそれぞれが霞ヶ関駅に集まっている違う路線に乗って霞ヶ関駅の少し手前の駅でサリンを発散させて逃げれば、密閉空間である電車の中にサリンが充満して霞ヶ関駅で降りるべき人はそれで死ぬだろう。」と犯行を指示。さらに村井は実行役らに失敗したらサリンを吸って死ぬように命令していた。

 1995年3月20日、地下鉄サリン事件を決行。13人の死者と数千人の負傷者が発生する大惨事となった。事件後、「みんなを犯罪者にしちゃったな」と反省する言葉も漏らしたという。3月22日の強制捜査後は教団が報道される中で、麻原の「大天才科学者の雰囲気でけむに巻け」「どんどんホラを吹いてこい」との指示によりスポークスマンとしても登場し、第7サティアン内のサリンプラントは農薬DDVP工場であったとの主張をした。同時に警察の捜査撹乱のため中川智正らにテロを指示し、新宿駅青酸ガス事件、都庁爆弾事件のきっかけをつくる。

 1995年4月23日午後8時35分、教団東京総本部前において、山口組系暴力団羽根組の構成員で在日韓国人の徐裕行によって刃物で左腕と右脇腹を続けざまに刺された。村井は玄関内へ逃げたが出血が激しく、「息ができない」と訴えながら仰向けに倒れた。この様子はTVニュースで繰り返し放映され、日本中に衝撃を与えた。

 刺された後、直ちに村井は東京都立広尾病院に救急車で搬送され、手術をしたものの「ユダにやられた」「私は潔白だ」と言い残し、翌24日午前2時33分に出血性ショックによる急性循環不全のため死亡した。右脇腹に受けた深さ13cmの刺し傷が致命傷となった。

 司法解剖後、村井の遺体は紺と白の格子しまのある浴衣が着せられ、渋谷区の代々幡斎場へ移送された。遺体はオウム信者が製作した棺に納められた。棺は木くずだらけでラッカーが塗られておらず、窓のレリーフが粗末で、釘を打つ場所がずれている状態だった。火葬後、遺骨は両親とともに、東海道新幹線で大阪府吹田市の実家へ帰郷した。教団では、村井が死亡した4月24日以降の10日間、事件現場となった東京総本部前で弔いの踊り「鎮魂の舞い」を披露し、村井を追悼した。

 実行犯の徐裕行は昼頃より事件現場に待ち伏せており、計画的犯行であることが伺えた。徐はそのまま現場へ留まり、付近にいた警官に現行犯逮捕され、赤坂警察署へ連行された。犯行動機について徐は「義憤に駆られて殺した。幹部なら誰でもよかった。テレビや新聞を見て、悪いやつだ、何とかしないといけないと思った」「1人でやったんだからそんなことどうでもいいじゃないですか」と答えたが、その後「羽根組若頭のKの指示による犯行」と供述。5月11日、若頭Kも共犯として逮捕された。羽根組はその後解散した。裁判では、徐は若頭の指示により犯行に及んだと主張した。動機については若頭から「『オウムはとんでもない悪い組織だ』と何度も聞かされ、犯行3日前に『教団幹部のうち誰か一人を包丁でやるんだ』と指示された」と答えた他、証拠採用された供述書では「羽根組の組員として、若頭の命令に逆らえないと思った。しかし、若頭の私利私欲のために利用されたのか、と疑念が生じている」と内情を明らかにした。一方、若頭は「指示」そのものを否定した。警察の捜査でも、暴力団若頭とオウム真理教の接点が見当たらなかった。裁判の結果、実行犯に懲役12年、暴力団若頭に無罪判決が下り、確定した。徐は旭川刑務所に服役し、2007年1月に出所している。

 この事件は様々な情報が錯綜しており、いくつかの陰謀説が存在している。特に被害者の村井が毒劇物の生産や一連のオウム真理教事件の中核を担う立場だったとみられることから、オウム真理教内部による口封じではないかという見方が非常に強かった(刑事事件としてはオウム真理教の関与はないと認定されている)。現に村井の死によって、村井が知りうる供述が聞き出せなくなり、事件解明を遠のかせることとなった。地下鉄サリン事件後、村井はサリン製造疑惑を否定するため頻繁にテレビ出演をしていた。1995年4月17日放送の「THEワイド」で村井は生物化学兵器専門家のカイル・オルソンと討論をしているが、放送中にサリン製造に必要なハステロイの存在を明かしてしまい、厳しく追及される一幕があった。村井がサリンプラントの言い訳に手こずっているのを見かねた麻原が、早川紀代秀らを集め会議を開き、「ポアもやむなし」と指示したとする証言がある。1995年5月2日放送の「ザ・フレッシュ!」では村井秀夫刺殺事件の映像を分析する特集が流れ、二人の信者が村井の逃げ場をさえぎる動きをしていた疑いがある、と報道した。映像では眼鏡をかけたチェックのワイシャツの信者が、腕を伸ばして村井の進路を遮り、警護していた信者を羽交い締めする様子が記録されているが、裁判で検証されることはなかった。

 1995年4月24日死去(享年36)