ジム・モリソン

ジェームズ・ダグラス・モリソン(James Douglas Morrison 1943年12月8日生)
 [アメリカ・ミュージシャン]



 ロックバンド、ドアーズのボーカリスト、作詞家。バンドの大部分の楽曲の作詞をし、またそれとは別に数冊の詩集を発表した。

 フロリダ州メルボルン生まれ。ジムは厳格で保守的な両親によって育てられた。一家は父の職業柄、転居を重ねジムはそのためか家に閉じこもって読書にふけることが多くなった。高校卒業後フロリダ州立大学に入学するが、哲学や詩にのめり込み、1964年の1月に家族の反対を押し切りUCLAの映画学科に編入する。UCLAで彼はレイ・マンザレクに出会い、彼に自作の詩を読んで聞かせた。マンザレクは彼の詩に惹かれ、バンドを組むことにする。ジムはレイと彼の兄リック、メディテーションセンターで出会ったジョン・デンスモアと共にデモ・レコードを録音する。リックがバンドを辞め、同じメディテーションセンターの仲間だったロビー・クリーガーが参加してザ・ドアーズのラインナップが完成した。

 バンド名は、オルダス・ハックスレーが18世紀の詩人ウィリアム・ブレークの詩の一節から取った書のタイトル『知覚の扉』を元に、ドアーズという名を付けた。

 ドアーズはエレクトラ・レコードと1966年に契約する。1967年1月にリリースされたデビュー・アルバム『ハートに火をつけて』はセンセーションを引き起こし、第2弾シングル「ハートに火をつけて(Light My Fire)」は大ヒットした。ビルボード誌では、1967年7月29日に週間ランキング第1位を獲得。1967年の年間ランキングでは第2位となった。

 ジムは、そのルックスと身体ラインを浮き立たせる革パンツでのステージ・パフォーマンスで、当時のポップ界におけるセックスシンボルの一人となった。彼はいわゆる「ロックスター」であることに極めて自覚的であり、ステージでは革パンツで、セクシャルに立ち振る舞い、雑誌等のインタービューではメディアの飛びつきそうなキャッチーで過激な語句を使用するなど、マスメディアによるグループのイメージ構築を、意図的に、試験的に行っていた。しかし、人気が全米的なものになり、彼はスターとしての地位の中で次第にフラストレーションを感じるようになった。

 ドアーズの結成前からジムは様々なドラッグを服用し、多量の飲酒で様々などんちゃん騒ぎに耽った。時にはレコーディング時も酔っぱらい、その様子は多数録音された。「ファイヴ・トゥ・ワン」の中では彼のしゃっくりが聞かれる。また、ジミ・ヘンドリックスとのセッションでも酔っぱらった様子が録音されている。

 1969年3月、マイアミでのコンサートで彼はズボンを下げ自慰行為を見せたと言うことで逮捕される(2010年12月9日、フロリダ州知事の特赦で「無実」ということになった)。ジムの逮捕と共に、バンドは反社会的存在のレッテルを貼られ、ライブ活動は縮小していった。1970年12月12日のニューオーリンズでのステージを最後にジムはライブ活動を停止した。彼は著作に専念するため1971年3月にパリへ移り住んだ。

 ジムは1971年7月3日にパリのアパートでバスタブの中で死体として発見された。多くのファンおよび伝記作家が死因を薬の過剰服用や、アメリカ政府による暗殺の可能性を推測した。死因は公式には心臓発作と発表された。彼はパリの東にあるペール・ラシェーズ墓地に埋葬されているが、訪れるファンの落書きやゴミが問題とされ、新しい別の場所に再埋葬される可能性が示された。

 幾人かのファンは、彼の死はスポットライトから逃れるための偽装だと信じている。また、実際にはパリのナイトクラブで死亡し、遺体がアパートに運び込まれたという噂も語られた。陰謀を主張するものは、彼のガールフレンド、パメラ・カーソンが「彼は非常に疲れていて、病院で休んでいる」と新聞に語ったことを指摘する。実際に死体が埋葬されるのを見たのはごく少数で、またジムは「死」に先立つ数ヶ月前からバンドのメンバーによく「アフリカへの逃亡」を冗談めかして話していた。デンスモアが、ジムの墓に初めて訪れた際、彼は「(遺体が入るには)墓が短すぎないか?」と話したと言われている。

 1971年7月3日死去(享年27)