橘左京

橘左京(たちばなさきょう 本名:矢野勝子 1906年生)
 [振付師]



 1921年、宝塚音楽歌劇学校(当時は宝塚少女歌劇団と一体であった)に第11期生として入学。翌1922年、月組に配属され、関守須磨子という芸名で初舞台を踏んだ。宝塚歌劇五十年史に、その踊りが「天才なりと称される」と記録されるほどであった。1926年に宝塚を退団。最終公演出演の演目は月組公演『花物語』『夢買長者』『寅童子』『陽春』。

 1928年に松竹楽劇部(のちの松竹歌劇団)へ入部。福井久美子という芸名で舞台にたっていたが、のちに藤間流の名手となり、藤間勘美を名乗って後進の指導にあたった。その後、振付師に昇格し、橘左京の名で振付した『春怨』が新宿第一劇場で公演され、日舞に洋舞感覚をいれた新しいものとして好評を得た。1939年、浅草国際劇場の『第10回東京踊り・興亜の春』を振付して、オリエ津坂、水の江瀧子らの全盛時代を築きあげた。

 1950年、43歳で結婚。相手は22歳年上の建設会社社長であった。夫は莫大な遺産を残して1964年に他界したが、本人は質素な生活を過ごし、心身障害者へ多額の寄付をするなど、慈善活動を積極的に行っていた。1969年1月5日、静岡県熱海市伊豆山七尾峠のススキ原のなかで、後ろ手に縛られ、身体をくの字に折り曲げられた絞殺体となって発見された。検視により殺害は1日前と判明したが、物証に乏しく捜査は難航。怨恨・痴情のもつれ・金銭上のトラブルのいずれかの可能性で捜査が進められたが、結局何の手がかりも発見できず事件は迷宮入り。1982年1月に時効を迎えた。

 1969年1月4日死去(享年62)