広瀬習一

広瀬習一(ひろせしゅういち 1922年3月15日生)
 [プロ野球選手]



 滋賀県生まれ。大津商業出身。1939年に、甲子園に出場しているが、当時は遊撃手だった。夏の県予選から投手と外野手を兼任し、甲子園への切符をかけた京都勢との代表決定戦初戦で、京都商の神田武夫と二日がりの大投手戦を演じるも惜敗。卒業後、旭ベンベルグに入社。旭ベンベルグの野球部「大津晴嵐会」に所属していたが、巨人監督の藤本定義が二年越しで口説き、巨人に入団。

 1941年7月、西宮遠征中の巨人が宿泊していた兵庫・宝塚温泉の旅館に現れ、近くを流れる武庫川の河原で藤本と楠安夫、多田文久三立会いのもと、ピッチングを披露したが、足元の悪い河原をものともせず、サイドスローから球威のあるボールを立て続けに投げ込み、楠や多田を驚かせた。広瀬へのスカウト活動は前年から行なわれていたが、立ち会った楠や多田、川上哲治や千葉茂ら同時期にプレーした選手たちは、広瀬が突然宝塚に現れて入団テストを志願し、採用されたと戦後も思っていた。

 戦時中に巨人の投手陣を支えたヴィクトル・スタルヒンが故障で戦線離脱した際のエース。デビュー戦3安打完封により鮮烈なデビューを飾り球場を湧かせた。1942年、21勝6敗で巨人の優勝に貢献したが、翌年に応召。1944年9月13日、フィリピン・レイテ島で戦死。わずか2年の選手生活であった。東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。

 1944年9月13日死去(享年22)