クリス・キャニオン

クリス・キャニオン(Chris Kanyon 本名:クリストファー・クルカサーティス 1970年1月4日生)
 [アメリカ・プロレスラー]



 ニューヨーク州サニーサイド出身。大学卒業後に本格的トレーニングを開始し、ローラー・イースト・サイド・レスリングジムにてトレーニングを1991年11月から1992年1月まで受け、4月にクリス・モーガンのリングネームで一度だけ試合をしている。それから3年はフィジカル・テラピストとして働きつつ夜と週末だけ試合をする生活を続け、1994年にはWWFでジョバーとして何回も登場するようになった。また、友人であり将来マネージャーになるジェームズ・ミッチェルにポテンシャルを見抜かれ、南部カリフォルニアでファビュラス・ムーラの元でトレーニングを受けつつ、アファのワイルド・サモアン・レスリング・スクールでもトレーニングを受けていた。1995年からフルタイム・レスラーとして活動をするようになる。

 キャニオンは1995年にWCWにジョバーとしてデビュー、マーク・スターと「メン・アット・ワーク」というタッグを結成している。キャニオンとマークの2人は建設労働者ギミックで活動し、ジーンズをタイツの変わりに穿いていた。その後1996年にチームは解散。1997年にギミックを練り直し、キャニオンはマスクを被ってリングネームをモーティスを改め、抗争を開始した。

 1998年にモーティスはフロックに加入し、モーティスのギミックを破棄してキャニオンとしてレイヴェンと抗争を開始する。キャニオンはフロックのサターンとタッグを組むようになるが突如サターンを裏切り、レイヴェンと共闘、フロックに加入した。しかし、その後レイヴェンがサターンに敗北したためにフロックは解散。フロック解散後もレイヴェンとタッグの活動を続けていたが、キャニオンはうつ病を理由に欠場した。

 1999年に復帰し、バンバン・ビガロとダイヤモンド・ダラス・ペイジとでジャージー・トライアッドを結成した。トライアッドはサターンとクリス・ベノワのタッグとタッグチーム王座を賭けて抗争を開始するようになり、6月にサターンとベノワ組を破りタッグ王座を獲得した。1999年後半にクリス・シャンパン・キャニオンのリングネームに変えて、ギミックもハリウッドに魅了され、女性、高級車、ジャンパンを贅沢に使うようになったキャラクターになり、DDPやビガロと抗争をするようになった。その後はエリック・ビショフをリーダーとするニュー・ブラッドに加入すると同時にDDPと抗争を開始するようになる。抗争と同時にキャニオンはDDPの真似をするようになり、リングネームをポジティヴィティー・キャニオンに変えたり、長いブロンドのカツラを被るようになったりしていた。その後は髪を伸ばしてブロンドに染め、P.C.Kと書かれたTシャツを着るようにもなった。

 2001年7月のスマックダウンに元WCWのヒール・ユニット、アライアンスとして登場。アライアンスのアングルが進行中のさなか、10月末にランディー・オートンとのダーク・マッチの最中に左膝の前十字靭帯が断裂して欠場してしまう。2002年に怪我から復帰するも、7月にランス・ケイドとの試合中に左肩の棘上筋を痛めてしまい、7月21日に手術をしたが薬物アレルギーが原因で25日に呼吸困難になってしまった。28日に退院するが15kg体重を落ちていた。2003年に復帰し、ジョバーとして主に活動していたが、2004年2月、ジョバーだけでの活動や怪我の影響などでストーリーラインに絡めなくなり、リリースされた。リリース後は同性愛者のギミックを使用するようになった。2005年、インディー団体に参戦するようになり、様々なショーへ参加するようになる。12月にはクリス・Kのリングネームでレイヴェンと対戦するが負けている。

 2007年5月に引退。2010年4月2日、自宅アパートで死亡しているのを発見された。キャニオンは双極性障害に悩まされており、それが原因で自殺したものだった。空の抗うつ薬、家族への謝罪のメモも発見された。

 2010年4月2日死去(享年40)