八千代

八千代(やちよ 本名:遠藤美紀子 1887年生)
 [芸妓]



 13歳から芸妓の道に入る。大阪で一番の大店であった富田屋に在籍して活躍。日露戦争時に発売された絵はがきに起用されたことにより、その整ったクールビューティーぶりは美人マニアを虜にした。その名は全国的に知られる存在となり、東京の萬龍、京都の千賀勇らと合わせて日本三名妓と評されるほど絶大な人気を誇る名妓となった。

 1917年、日本画家の菅楯彦と結婚。馴れ初めは、明治天皇崩御に伴う休業時に、絵に親しんだ富田屋の主人が芸妓に絵を習わせようと、親しくしていた楯彦を呼んだのがきっかけだという。そのうち熱心に教えを乞うのは八千代ひとりとなり、知人の染織家・龍村平蔵などを介して結婚に至った。八千代は慣れない家事のかたわら、楯彦に付いて有職故実や書画、和歌を学んだ。絶大な人気を誇った名妓と、未だ大坂の中堅画家に過ぎなかった楯彦との結婚は大きな話題となり、楯彦の絵も売れるようになったという。

 しかし、生来体が弱い八千代は1924年、腎炎により37歳で亡くなってしまう。楯彦の悲しみは大きかったが、妻の死が楯彦をの画業を飛躍させる契機になったとも言われる。

 1924年?月?日死去(享年37)