ハル薗田

ハル薗田(ハルそのだ 本名:薗田一治 1956年9月16日生)
 [プロレスラー]



 宮崎県出身。中学、高校時代は柔道を経験。1974年7月25日に全日本プロレス入門、1975年1月15日の渕正信戦にてデビュー。大仁田厚、渕正信らと共に若手三羽烏と呼ばれた。1978年4月、短期ながら東南アジア遠征を体験。これは選手個人の海外修行ではなく全日本プロレスの海外興行であった。翌1979年9月からは海外修行を開始、プエルトリコを皮切りにアメリカで活動した。プエルトリコではミツ・イシカワとタッグを組み、ノース・アメリカン・タッグ王座を獲得。アメリカ本土ではマスクマンのマジック・ドラゴンとして活動。フリッツ・フォン・エリックのテリトリーであったテキサス州ダラスに転戦後、ザ・グレート・カブキとタッグを組み活躍した。

 帰国後も、ジャイアント馬場の付き人を務めながら覆面レスラーのマジック・ドラゴンとして活動を続けるが、1985年、小林邦昭とのマスカラ・コントラ・カベジュラ戦で敗北し、マスクを脱いだ。これを機にリングネームをハル薗田に改名。

 1987年9月にジャイアント馬場夫妻の仲介で真弓夫人と結婚。しかし2ヶ月後の1987年11月28日、タイガー・ジェット・シンの招聘によって、南アフリカ遠征興行を兼ねた新婚旅行の途上で南アフリカ航空295便墜落事故に遭遇、夫婦で事故の犠牲となった。

 南アフリカ航空295便は、台湾桃園国際空港を出発し、途中にインド洋の島国であるモーリシャス島に給油のため経由し、南アフリカのヨハネスブルグに向かう予定であった。台北を出発して9時間30分は問題なく飛行していたが、突然モーリシャスの航空管制官に対し『煙が充満し緊急着陸しなければならない事態である』と知らせる通信があった。その後、電気系統のトラブルのためか通信が途絶、最後の通信からわずか3分後の現地時間午前4時ごろにはモーリシャスの北東約250Km沖合のインド洋上に墜落した。この便には乗員19名、乗客140名のあわせて159名が搭乗していたが、旅客機は高速で海面に突入したため粉々になっており、159名全員が犠牲になった。また機体の残骸は水深約5000mの海底に沈んでおり、大部分の引き上げは不可能であった。

 事故原因として当初、当時の南アフリカ政府が行っていたアパルトヘイトに反対するグループらによるテロと考えられていた。しかし、深海探査船による残骸調査の結果、貨物室にあった搭載品と構造材が焼け焦げていたのが判明した。そのため事故調査委員会は搭載されていた6枚のパレットのひとつから出火し、それに伴い火災が電気系統、昇降舵・方向舵等の操縦系統を損傷させるとともに、一酸化炭素などの有毒ガスが発生し、パイロットの平衡感覚もしくは意識を喪失させ、そのまま海面に衝突したと推定した。火災発生場所と客室が隣接しており、一酸化炭素等の有毒ガスを含んだ煙が客室に充満した。そのため乗客らは墜落前に死亡するか、意識障害を起こしていたものと推測されている。

 1987年11月28日死去(享年31)