デイヴィッド・ジョンストン

デイヴィッド・アレクサンダー・ジョンストン(David Alexander Johnston 1949年12月18日生)
 [アメリカ・火山学者]



 イリノイ州シカゴ生まれ。イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校で地質学を専攻し、1971年に首席で卒業。1978年、アメリカ地質調査所(USGS)に入所。1980年3月、ワシントン州にあるセント・ヘレンズ山が噴火活動を起こした際、観測チームの主任科学者として、放出される火山性ガスのモニタリングを担当。5月18日、山頂から6キロメートル離れた位置に設けられていた観測所で当番についていたが、現地時間8時32分、マグニチュード5.1の地震が山域を揺るがして地すべりを誘発した。これが大噴火の引き金となった。数秒のうちに、地震の振動が山の山頂から北斜面にかけての、2.7立法キロメートルに及ぶ岩石をぐらつかせ、大規模な地すべりを発生させた。山体がもたらしていた圧力が消失し、セント・ヘレンズ山のカルデラから急激に水蒸気と様々な火山ガスが放出し始める。数秒後、側面噴火が始まり、斜面から音速に近い速度で高速な火砕流が噴出した。その流れは後で合流しラハールとなった。爆風がジョンストンが居たところまで到達するのに、最速で1分はかからなかったと見られる。ジョンストンは無線でUSGSの同僚に向けて「Vancouver! Vancouver! This is it!」(バンクーバー!バンクーバー!ついに来た!)と通信を送り、次の瞬間、無線はとぎれた。ジョンストンの遺体は見つからなかったが、彼が使用していたUSGSのトレーラーは、1993年に州道管理作業員によって発見されている。

 人々はその噴火の規模にショックを受けた。山頂が400メートルも低くなり、約600平方キロメートルもの森林が破壊され、火山灰は他の州やカナダにまで到達した。ジョンストンを死に至らしめた側面噴火のスピードは、時速354キロメートルから始まり時速1078キロメートルにまで達している。この事実に、USGSの科学者でさえ畏怖を覚えた。火山爆発指数は5と判定され、壊滅的な噴火であったことを示している。ジョンストンを含む57名の人々が死亡もしくは行方不明となった。この災害は、合衆国で発生した火山災害で最も死者数が多く破壊的な噴火だった。多くの死者・行方不明者に加え、降灰と火砕流により200軒もの家屋が破壊あるいは埋没し、たくさんの人が住む家を失った。人々の被害に加え、何千もの動物が命を失った。USGSによる公式な推定によると、およそ7000もの狩猟動物が死に、40000匹のサケと1200万匹に及ぶその稚魚が失われた。

 ジョンストンの経歴を見ると、アラスカ州のオーガスティン山からコロラド州のサン・ファン火山地域、ミシガン州の長期間活動のない火山というように、アメリカ国内を渡り歩いて研究を行っている。彼は、火山性ガスの分析と噴火との関連に関する研究で、綿密で才能のある学者として認められていた。彼の示す熱情と前向きな姿勢は、多くの同僚から好意と敬意を受けており、彼の死後、幾人もの科学者が口頭もしくは献辞や書簡で彼の人柄を称えている。ジョンストンは自然災害から人々を守る一助となるために、科学者はリスクを取ってでも必要なことはやり遂げる必要があるとの信念を持っていた。彼と同僚のUSGSに所属する科学者の活動は、1980年の噴火に際して当局にセント・ヘレンズ山周辺への立ち入り規制の必要性を確信させた。解除を求める強い圧力のなか規制を維持し続けた結果、何千もの命が救われている。彼の物語は、一般の人々がもつ火山噴火と社会に対する脅威についてのイメージの中に組み込まれ、火山学の歴史の一部となった。

 その死後、ジョンストンを記念していくつかの動きがあった。ワシントン大学は、地球科学と宇宙科学の分野で研究する大学院生を対象とする彼の名を冠した記念基金を設立している。また、彼の名を冠する火山観測所が、ワシントン州バンクーバーと彼が亡くなった尾根上の2ヶ所に設立された。彼の人生と死は、様々なドキュメンタリーや映画、ドラマ、書籍の題材となった。噴火の犠牲となった多くの人々とともに、ジョンストンの名前も彼の献身を悼み碑文に刻まれている。

 1980年5月18日死去(享年30)