大久保清

大久保清(おおくぼきよし 1935年1月17日生)
 [連続殺人犯]



 末っ子に生まれた大久保は、ロシア人の血を引く母親に溺愛され、成人してからも「ボクちゃん」と呼ばれ子ども扱いされていた。1946年、小学校6年生のときに幼女を麦畑に連れ込み、性器に石を詰め込む。1952年4月、東京都板橋区の電気店に住み込みで勤めるが、銭湯の女風呂を覗き現行犯逮捕され、店を解雇される。

 1955年7月12日、伊勢崎市の17歳の女子高生を強姦。懲役1年6ヶ月、執行猶予3年の判決を受ける。同年12月26日、再び強姦事件を起こすが、被害者の抵抗で未遂に終わる。3年6ヶ月の実刑となり刑務所へ。1959年12月15日、模範囚として刑期を6ヶ月残し出所。1963年、谷川伊凡のペンネームで詩集『頌歌』を自費出版。

 1965年6月3日、牛乳ビン2本を盗もうとした少年の兄を恐喝し、恐喝および恐喝未遂罪で懲役1年、執行猶予3年の刑を受ける。なお、1962年5月には結婚しこの年に第2子が誕生していた。1966年12月23日、高崎市の16歳の女子高生を自動車に乗せ、車内で強姦。1967年2月24日、前橋市の20歳の女子短大生を自動車に乗せ、車内で強姦。その後逮捕され懲役3年6ヶ月の判決を受け、更に恐喝事件の執行猶予が取り消されて懲役4年6ヶ月の刑となる。

 1971年3月2日、強姦致傷で服役していた府中刑務所を出所した後、逮捕されるまでの間、親に仕事で必要だからとねだって買ってもらった当時の最新型スポーツカー、「マツダ・ファミリアロータリークーペ」に乗り、約1000人以上の女性に声を掛け、150人ほど車に乗せ、10数人と肉体関係を持ち、肉体関係を強く拒否した8名を容赦なく殺害、死体を造成地等に埋めて遺棄した。被害届けを出さなかった女性も数知れず、その被害実態は未だに明らかでない。

 ベレー帽を被ってルパシカを着てスポーツカーに乗りながら、画家を自称し「絵のモデルになってくれませんか?」と片っ端から女性に声をかけていたことから、逮捕当時、ルパシカを着た色魔とマスコミで表現された。ロシアの血を引く甘いマスクと巧みな話術、物腰柔らかな態度、女性達は大久保の魅力に引き寄せられるように車に乗り込んだ。

 1971年5月14日、群馬県警藤岡警察署で逮捕。逮捕後しばらくは暴れ馬のように興奮して、取調室で茶碗を投げつけるなどしていたが、いっぱしの芸術論を披露したりして刑事に誉められていくうちに、「死刑になってもかまわないからすべて自供する」と言って自供。「裁判でも自供は変えない」と断言した。1973年2月22日、前橋地裁で死刑判決。控訴せず判決が確定。

 1976年1月22日、東京拘置所で死刑執行。死刑執行を知らされた大久保は腰を抜かして歩けず、係官に両脇を抱えられて死刑台に向ったという。死刑執行に対し恐れおののく姿が関連の書籍によって克明に紹介された。執行前からマスコミが拘置所に押しかけ、窓際にたたずむ大久保清をカメラで撮影したり、死刑執行情報をキャッチしたりして、茶の間にいち早く大久保の状況を報道していた。

 1976年1月22日死去(享年41)