春風亭一柳

春風亭一柳(しゅんぷうていいちりゅう 本名:長坂静樹 1935年10月12日生)
 [落語家]



 東京都出身。幼い頃に両親が離婚し、母と祖母に育てられる。東京都立西高校入学に前後して母と祖母が病没。本人も病弱のため高校を約2年間休学し、一人残された実家を間貸しして生活。休学中に寄席通いをはじめ、6代目三遊亭圓生の熱心なファンとなった。圓生から顔を覚えられ、圓生宅に招かれるほど親しくなり、高校を中退して1956年8月に入門。三遊亭好生(さんゆうていこうしょう)を名乗る。

 芸風や背格好、所作に至るまで師匠の圓生と似ており、「圓生の影法師」と言われた。圓生に心酔し神のように崇めた結果であるが、圓生から見ると下手だと言われた自分の若い頃を思い出させて不愉快であったらしく、好生は師匠から疎まれることとなった。生え抜きの圓生門下であるにも関わらず、8代目春風亭柳枝一門から移籍してきた弟弟子三遊亭圓彌・6代目三遊亭圓窓に真打昇進で先を越され、また5代目圓生追善会で口上から外されるなど、徹底的に冷遇され続け、好生は内気な性格から思い悩むようになっていった。

 落語協会分裂騒動で圓生が落語協会を脱退して新団体を設立した際、好生はあれ程まで崇拝していた師匠に従わず、圓生の天敵8代目林家正蔵一門の客分格弟子となった。その後圓生から芸名の返却を迫られ、好生は5代目春風亭柳昇から「春風亭」の亭号使用許可を貰い、春風亭一柳へと改名した。「一柳」の「一」は正蔵が尊敬する三遊一朝の「一」から取った。圓生の死後、1980年7月に自叙伝『噺の咄の話のはなし』を晩聲社から出版。この本の中で「圓生が死んで嬉しかった」「これでおれは生きていける。死なずにすむんだ」など圓生に対する痛烈な罵倒を記していたことから世間を驚かせた。

 自叙伝出版直後は明るい表情を見せていたが、次第に精神的に落ち込むようになり、写経をはじめたり、「噺の間の取り方がわからなくなり生きていく望みがなくなった」と妻に語ったりするなど、言動が周囲に心配されるようになった。投薬治療で快方に向かっていたが、1981年7月9日、自宅であった葛飾区東金町の団地屋上から飛び降り自殺した。一柳が家を出たのは午前8時30分、遺体発見は午前8時45分であった。

 一柳の死について、愛憎入り混じった圓生への長年の想いによる心労の蓄積を原因に挙げるものは多い。兄弟子の川柳は「吹っ切るつもりで自叙伝の中で圓生を罵り、自分をさらに追い詰めてしまった」「圓生に殉じた」と述べ、弟弟子の三遊亭圓丈は「圓生の呪縛から生涯逃れることができなかった」と述べている。

 1981年7月9日死去(享年45)