中川勝彦

中川勝彦(なかがわかつひこ 1962年7月20日生)
 [歌手/俳優]



 東京都出身。会社社長の長男として誕生し、裕福な少年時代を過ごす。1978年、慶應義塾高等学校に入学し、そこでバンド活動を始める。1980年の高校3年の時に、NHK「ヤングミュージックフェスティバル」に出場し、デビューのきっかけとなる。大学は慶應義塾大学法学部政治学科と早稲田大学法学部に合格するが、慶應大学に進み後に中退。映画『ねらわれた学園』や『転校生』などに出演し、人気を博す。 『ねらわれた学園』では薬師丸ひろ子の相手役オーディションで最終選考まで残った。


 1980年代前半の日本の歌謡界では珍しいヴィジュアル系アーティストとして、本田恭章と人気を二分していた。日本版グラムロック、現在のビジュアル系のハシリでもあった。美しいルックスとは裏腹に、気さくで腰が低く茶目っ気のある人柄で関係者に親しまれた。歌手や俳優活動以外にもラジオのパーソナリティーとしても活躍。下ネタを持論を交えて大真面目に滔々と語る喋りが受け、中川のファンだけではなく、番組ファンからも評価を集めた。


 デビュー当時はムーンライダーズのメンバーが全面的にサポートし、楽曲提供や演奏で参加。その後、Charとユニット「MAJI-MAGIC」を結成するなど、アーティスト色を濃くしていく。本人による作詞・作曲も数多い。ヴォーカリストとしては妖しさと力強さを兼ね備えており、伸びのある歌声で評価が高かった。


 結婚は、当時としては珍しいできちゃった結婚で、その時に授かった子がマルチタレントの中川翔子である。アイドル的路線だった中川の事情もあり誰も口外しなかったため、子ができたことを知っていた者は少なく、聞き及んでいたのは関係者のみである。さらに彼は結婚したことも公にしていなかった。後年、タレントとして活動を始めた翔子自身が「父は中川勝彦」と明かすまで、勝彦と翔子が親子である事実が、芸能界に知られる由もなかった。


 1992年9月に急性骨髄性白血病を発症。以後9ヶ月の闘病生活を経て復帰するも1994年8月に白血病が再発し、32歳の若さで永眠。病状に関しては親しい知人にも詳細を明かしておらず、ラジオ番組を通して公私とも交流していた兵藤ゆきと北野誠は人づてに「体調が悪いらしい」と聞き、見舞いの頃合いを検討したいた折りに突然の訃報を受け言葉を失ったという。戒名は「惠空院耀翔日彦居士」、墓は東京都台東区の常在寺にある。


 死去から約24年が経過した2018年7月、翔子がACジャパン「日本骨髄バンク支援キャンペーン」・『「生きたい」と願う人がいる』のキャンペーンCMに起用され、自分が9歳の時に白血病で死去した父に言及するとともに映像内で写真が使用されている。


 1994年9月17日死去(享年32)